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働いていないことへの罪悪感の正体ーーー自分の無価値感はどこから生まれる?

「どうして私は、働いていないことに罪悪感をもっているんだろう」

最近そう疑問に思った。

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私は妊娠に伴い、仕事を離れた。

仕事を離れて間もない頃、何だかそわそわしていた。

そわそわの正体は罪悪感だった。

妊娠しているという理由があるものの、世の中には妊娠しながら働いている人はいくらでもいる。なのに自分は働けなかった。

誰から責められているわけでもないのに、家計を支えてくれている夫や、働いている社会の全ての人々にまで後ろめたさを感じていた。

その罪悪感のせいで、家事をいつもより一生懸命してみたり、料理を頑張ったりしたときもあった。頑張って料理を作ったのに、夫から「遅くなるから今日は晩御飯は要らない」と言われてとても悲しくなり、腹が立ってしまうという謎の一人相撲をしていたこともあった。

そういえば、この罪悪感には身に覚えがある。

昔、職場で色々あり、うつ状態になって数ヶ月休職したことがあった。一人暮らしをしていたのだけど、家事もままならず、実家で休養した。心の中が空っぽで、来る日も来る日も涙が止まらないという状態だった。

そんな切羽詰まった状態でも、罪悪感はいつも心の片隅に鎮座していた。今考えれば、罪悪感など感じている場合ではない。休養が先決だ。

それは、育児をしている今も同じだ。

罪悪感など感じる必要はない。子どもを世話すること、家事をして家を整えること。これも立派に家族に貢献している。買い物をし、日常生活を送る中で、消費者として経済にだって貢献している。

なのにどうして、罪悪感が拭えないんだろう。
どうして、働いていないことがいけないことのように思うんだろう。

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そもそも、働いて私は、どんな感覚を得たいんだろう。

それはきっと「人や社会の役に立っている」という感覚だ。

けれど、先ほど書いたとおり、働いていなくても人や社会の役に立っている。

何か価値を生み出すという点でも、例えば、家事で仕上がった洗濯物や子どもと過ごす時間はとても価値あるものだ。

家事は誰にでも出来るかもしれないが、仕事も同じだ。仕事だって代わりはいくらでもいる。

けれど働くことに執着している。働いているからこそ、得られることがそこあるのだ。

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それはそう。簡単に言えば「お金」だ。

なぜ「お金」が支払われることを望んでいるのか。

もちろん、お金によって経済的に豊かにはなる。働いていることで将来の不安も多少消えるかもしれない。

でも、経済的豊かさや将来の不安が原因なら、罪悪感というより、焦燥感やもっと切実な気持ちを抱くだろう。一人悶々とするよりは、急いでハローワークにでも通うはずだ。罪悪感はその焦燥感とは違った感情なのだ。

働いてお金を得られないことで、どうして罪悪感が生まれるのか。

それはお金が、「客観的価値」を持っているからではないだろうか。

お金というのは分かりやすい価値だ。
物価の変動はあるものの、誰からみても100円は100円。1万円は1万円だ。だから他のものにも交換できる。

一方で例えば、主婦の家事には値段がつかない。家事代行サービスと同じようにきっちり家事をしても、もちろんお金は生まれない。価値を生んでいるのに客観的な価値を持たない。

家事にお金がほしいわけではない。

ただ、毎日客観的な価値を与えられず過ごしていると、きっと無価値感を感じるのだ。

おそらく、罪悪感の根っこにあるのはこの無価値感なんだろうと思う。お金というものに執着がなくても、役に立っていることが目に見えて分からない、つまり客観的に無価値に思える自分が存在し続けていることに、罪悪感を感じる。つまり、自己を肯定出来ない。

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でもこの無価値感は、客観的無価値感だ。
お金や誰から見てもはっきり分かる価値に換算出来ないから無価値に思える。

そして、客観的価値がほしいという気持ちは、つまり、承認欲求なのだ。これが罪悪感の正体だと私は最近気付いた。

しかし、本来、価値というのは自分の指標で決めるものだ。

それはとても主観的だ。

現代は、科学的、客観的な正しさを元につくられている。お金だってそうだ。客観的価値であるお金がなければ、資本主義は成り立たない。

現代を生きる私たちには、この客観性が根深く染み付いている。それは、自分で価値を決めるという主観性をないがしろにしてしまうのかもしれない。

よく言う「他人軸」と「自分軸」の構造も同じだろう。客観性を優先していると他人軸になる。

価値は自分で決めるものだ。

罪悪感や後ろめたさの根っこにある、自分の無価値感に気付いたら、まずは自分で自分に価値を与えよう。

条件は不要だ。誰だって、存在していることそのものに価値があるのだから。

自分の価値を認めて初めて、社会や人の役に立つ何かを見つけていけばいいのだ。