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嫌う力―――自分を明確にする上で大切なこと

最近「嫌だな」と思ったことってあるだろうか。

「嫌だな」とか「この人嫌いだな」とか。

では、嫌だ、嫌いだなと思って、そのあと自分がどうしたか思い出してみてほしい。

①その出来事を無視して蓋をした。
②まあ仕方ないかと諦めた。
③ポジティブに考え直した。
④嫌だということを態度に示した。
⑤嫌だと、はっきり相手に伝えた。

などなど。

嫌なことが起きたとき、本来わたしたちはいろいろな反応が出来る。

あるとき、わたしは①〜③のパターンで対応することが多いなぁと気付いた。無意識のうちに選択肢を自分で制限していたのだけど、それには弊害があると気付いた。今日はそんな話。

それは、運転免許をとるため、自動車学校に通っていたときのことだった。

わたしの通っていた学校は、担任制で、路上練習のときはスケジュールが合う限り毎回同じ先生(A先生としよう。)が指導してくれた。

このA先生は変わり者だった。

どう変わってるか説明するのも難儀なくらい、変わっていた。
例えば、とエピソードを思い出そうとしたけど、今思い出すのも嫌な気持ちになったので省略する。とにかく偏屈な変わり者だった。

けれど、担任を変えることは出来ない。
明確に危害を与えてくるわけでもないし、ただ付き合い辛いタイプだというだけだ。
だからそのときの私は、嫌だという気持ちを堪えて、仕方ないと思うことにしていた。

こういうことって、よくあることじゃないだろうか。例えば職場にいる小うるさい人とか。いちいち嫌っていては仕事にならないし、パワハラをしてくるわけでもないので、毎日小さな我慢を繰り返したりする。

すると、わたしはいつの間にかA先生に自分を合わせるようになっていた。

例えば、説明が偏屈だったので、理解力をフル回転して、要はこういうことが言いたいんだなと自分で解釈していた。
よく分からない指導をされても、適当に受け流していた。愛想笑いさえしていたように思う。

あるとき、座学の授業で、知らない男の子BくんとA先生の授業を受けた。
A先生は相変わらず偏屈な授業をする。

休み時間になると、Bくんがうんざりした顔をしてわたしにこう言った。

「俺、あの先生嫌いやわ~」

Bくんのその言葉を聞いたとき、わたしはびっくりしてしまった。

(あ...。嫌いって言ってもいいんだな。)


そう思ったからだ。

わたしはそのとき、「誰かを嫌うことを自分が禁じていた」ことに気付いた。

と同時に、「嫌い」というエネルギーの強さにびっくりした。

というのも、Bくんが「A先生は嫌い」と言った瞬間、BくんのA先生に対する壁をはっきり感じたのだ。大袈裟かもしれないけど、それはBくんの世界をくっきり明確にした。

誰かを嫌わないことや、嫌だという感情を受け流すことは、一見大人な対応に見えなくもない。
倫理的にも正しいような気がしてくる。
巷には、"苦手な人との付き合い方"といった本も売られている。「苦手な人は自分を映し出す鏡だと思って感謝しよう」なんてポジティブなアドバイスまで書かれている。


けれど、何かを「嫌う力」は自分を守るために必要な、本能的な力だ。自分が嫌いなことや合わないことを何でもかんでも我慢してしまうと、合わない世界が自分の世界に静かに浸透してきて、自分はいつの間にかものすごく疲弊してしまうように思う。


「自分は何が好きで、何を得意としているか。」

そういう側面も自分自身の世界を表してくれる大切な要素だけど、「自分は何が嫌いで、何を苦手としているか」ということも、自分の世界観を明確にする上でとても大切なことなのだ。

そう気付き、わたしは「仕方ない」と思うことをやめることにした。
「この先生嫌だ」とはっきり思うようにした。

そうすると、自分の態度も変わってくる。
無理に相槌するのもやめたし、下手な説明をされたら「どういう意味ですか」とはっきり聞き返し、それでも偏屈な対応をしてくるので嫌な顔をすることにした。

さすがに学校に「他の先生がいい!」と訴えることはなかった。(今思えばそれくらい言ってもよかったかもしれない。)
その時はただ「A先生とスケジュールが合いませんように!」と何度も心の中で祈っていた。


するとある日、嬉しいお知らせがあった。
A先生が特殊な車両の免許をとるため長期不在になるというものだった。

嬉しさとともに、こんなことがあるのかと驚いた。
それ以来、他の先生が交代してわたしの担当をしてくれ、とても快適に卒業まで過ごした。


さてこれは、偶然だろうか。
それは誰にも分からないけれど。

「嫌い」という気持ちの大事さを知った、わたしのひとつの思い出になった。

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