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問わずがたり ライターになったころ

フリーペーパー『そのヒグラシ』(特集「新世界」)に寄稿したテキストが自己紹介に流用できそうなので、一部加筆の上で転載します。※コロナ禍前の文章です。
そもそも『そのヒグラシ』が何かという話はいつか別の機会に。

問わずがたり ライターになったころ

 数年前、「サードプレイス」という言葉を知った。自宅(ファーストプレイス)、一日の大半を過ごす仕事先(セカンドプレイス)とは違う、居心地の良い第三の空間のことをいう。現代社会において重要な、創造的な交流が生まれる場だという。
 社会学を学ぶ人から、あなたのサードプレイスは? と聞かれ、即座に浮かんだのは、鎌倉の小町通裏にある古本と立ち飲みの店、「ヒグラシ文庫」だった。

 2011年3月11日の夜。停電の中で2歳と5歳の子たちと布団にくるまりながら、自転車に乗れるようになろう、あと仕事見つけよう、と考えていた。
 それまでの約7年間、完全なる主婦であった。その前はフリーター。まともに就職したことがなく、使える資格もない、下の子は13時半には降園する幼稚園への入園が決まっている。およそ就活に向いていない条件が並んでいた。 

普通の仕事は望めないので、なかばハッタリをかまし、力業でライターになった。

 ライターになったのは、ほかにできることがなかったからだ。
 Webメディアがライターを募集していたので、「10代である大手出版社の公募小説で入賞し、一時期は商業作家活動をしていた」と化石みたいな実績をアピールした。ちなみに当時はライトノベルというジャンルはなく、少女小説と呼ばれていた。
 無職中もボランティアのライティング仕事はやっていたので、その成果物も持参して盛り気味に訴えたところ、採用された。

 養成講座を受講したわけでも出版社や編プロに勤めていたわけでもない。なんなら出身学科は文学専攻でもない。
 今でこそさまざまなバックグラウンドのWebライターは大勢いるが、その頃は紙業界の経験もなく作法も知らないままライターと名乗るうしろめたさがあった。人脈や経歴がないコンプレックスも、のちのちまで抱えていた。

 ヒグラシ文庫を知ったのはその頃のこと。震災から半年経っていた。取材で夜遅くなり、家族はもう食事を済ませていたので、どこかに寄って帰ることにした。
 ちょうど前から気になっていた店がある。Twitterか何かで、古本を売る立ち飲み屋があるという情報を仕入れていたのだ。夜、ひとり外で飲むなんて、もう長年やっていない。
 鎌倉で暮らしはじめ数年経っていたが、夜の鎌倉は私の知らない世界だった。

店はせまい、でも遠くへつながっている"という惹句と、ミミズクがグラスを握った看板。雑居ビルの2階にある狭くて暗い店には、先客がひとりいるだけだった。
 私はビールサーバーの陰にかくれるようにして日本酒をすすった。冷やした酒を頼むと百円高いと知り、「常温」という頼み方を覚えた。

 店は確かに、新しい世界につながる扉をもっていた。
 私にとって飲食店はこれまで、ただ食事をとるだけの場でしかなかった。店がプラットフォームになることを、ヒグラシ文庫はじきに教えてくれることになる。 

 震災を期に、家でも職場でもない、もうひとつの社交場が必要だと考えた主宰者が、震災の半月後にオープンさせたのがヒグラシ文庫だ。まさに、サードプレイスだったのだ。

 ライター歴とヒグラシ歴がだいたい同じ私は、自分のキャリアを振り返るときヒグラシでの思い出が一緒にくっついてくる。

 店に集う飲み仲間の「この指とまれ」方式で、トークイベントやコンサートを企画したり、一箱古本市をひらいたり。仕事の合間をぬって参画するイベントは、どれもかけがえのない心のよりどころになっていった。

一箱古本市の様子。カウンターは一箱店主が持ち寄った古本で埋まる
凝った料理は出せないけど営業はしている

 ほぼ自称だったライターという職業が、自分の腕のものになったと思えるようになったのはどれくらい経ってからだろう。

 常温という頼み方を知った頃の私は、いわば傘貼りや賭場の用心棒のようなことをして糊口をしのぐ浪人だった。今は剣術を見込まれ三十俵二人扶持で藩に召し抱えられているというか。フリーランスのライターではなくなった。

 そして、ヒグラシ文庫で出会った人たちとフリーペーパーをつくっている。新世界でしょ?


『そのヒグラシ』特集「新世界」2019年


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