見出し画像

旅の始まり


ネパールで、滞在先の村に向かうために、バスに乗っていた。隣にはつい昨日会ったばかりのフランス人。滞在先にバスで向かうのは、前回のボランティアを数えて二回目となる。前回は交通渋滞で6時間ほどバスに乗っていたので、今回はスムーズに行くことを願いながら、見覚えのある山道を眺めていた。

「変わらないな」と思った。
何も変わらない。前回来た時と同じ、少し慣れてきた景色。直前にいた日本とも、普段住んでいるアメリカとも、全く違うはずの景色なのに、私の目が捉える景色は変わらず日常を写していた。

元々環境適応能力が異常に高く、興奮もあまりしない性質である。そのことを知っていたにもかかわらず、それでも確かにそうだと確認する状況に置かれると複雑な気持ちが湧き上がるのは、仕方のないことだろうか。
そんなことを考えながら、私は代わり映えのしない山道を見つめていた。

「大丈夫?」
突然声をかけられて、内容を認識するのに、少々時間を要した。ダイジョウブ、だいじょうぶ、大丈夫? 漸く意味を理解して、隣に座ったフランス人の顔を見つめると、彼女は心なしか眉を下げて私を見ていた。
「どうして?」私は尋ねた。「寂しそうに見えたから」彼女は答えた。
寂しそう。どういうことだろう。私は寂しくなんかない。
私は不思議に思いながら「大丈夫だよ。慣れてるから」と言った。

否、もしかして私は寂しいのだろうか。何が。何事も自分のものとして捉えられないことが。
元の環境に執着すら抱けないことが、私は寂しいのだろうか。彼女は、私のその寂しさを見抜いてしまったのかもしれない。

私は「普段アメリカにいて家族と離れているから、寂しさを感じることはないよ」と彼女に説明をしながら、内心焦っていた。
彼女はきっと、私のこの寂しさを、「家族や友人から離れ一人ぼっちで見知らぬ国へ来たことの寂しさ」と勘違いしている。その寂しさが、私の心のもっと深いところを巣食う寂しさだとは気づいていない。それはわかっている。だけれど、一瞬だけふわっと浮かんだ寂しさを見透かされてしまったことに、私は驚くほど焦っていた。

ふと、アメリカにいるホストマザーのことを思い出す。
一時期、アメリカで病院に通っていたことがあった。
病院への送り迎えを、ホストマザーは毎回買って出てくれて、病院から帰る途中にご褒美と称してスタバでコーヒーをおごってくれた。

病院というのには、あまり良い記憶がない。
良い記憶がある人のほうが少ないのだろうけど、骨折をしたり、心電図に小さい違和があったり、リハビリをしたり、精神を崩したり、色々な理由で病院に厄介になっていた私は、あまり病院が好きではなかった。

自分の無力さを再確認してしまう。
生きているだけで他人に迷惑をかけてしまうという感覚から、逃れられない。

アメリカに来てからもそうだった。
私はホストマザーが運転する車の助手席で、何とか泣きそうな心を宥めていた。

その時ホストマザーが言った。
「大丈夫?」
私は「大丈夫だよ」と声を絞り出した。

ああ、なんで気がついてしまうのだろう。
賢くやさしく気高い女性は、特に私の寂しさに敏感で、いとも簡単に拾い上げてしまう。

誰にもわからないのだろうと高を括って隠してしまう寂しさを、目前に広げられてしまうかのような恐怖と焦り。「こんな幸せそうな人にはわからない」という僻みと偏見。それを自覚して気まずくなった私は、早々に話を切り上げて再び窓の外の山道を見遣った。

これが、私の旅の始まりだった。

主に書籍代にさせてもらいます。 サポートの際、コメントにおすすめの書籍名をいただければ、優先して読みます。レビューが欲しければ、その旨も。 質問こちら↓ https://peing.net/ja/nedamoto?event=0