信じることの責任

 最近のツイッターでしばしば見かける、「日本は白人主体の国家よりも絶対に犯罪が多くなければならない」という堅い信憑を有しているらしい人たちをまた見かけてゲンナリしてしまった。事実も統計も論理も全て無視して維持されるこの種の信憑こそ私にはレイシズムそのものに見えるのだけど、そういう指摘がされることは少なくて、むしろ彼/女たちの言うことを妄信する人たちがそれなりに目立つのも、またかなしみが増すところである。

 昨日のエントリで述べたことを言い換えれば、「事実と論理のみから形式的に疑問なく導かれるような結論は一般には『知識』と呼ばれるのであって、普通に『意見』と言われて議論が戦わされるような主張は、多くの場合において、そこに価値判断が含まれているのではないか」ということなのだけど、「事実と論理のみから形式的に疑問なく導かれるような結論」であるように思われる知識についても絶対に受け入れない人たちを見ていると、まあ難しいものだなあというお気持ちにはなる。

 このエントリで言うところの「意見」ではなくて、「知識」すら絶対に受け入れることを拒否するような強固な信憑のことは、現代日本の一般的な用語法に即すれば「信仰」と呼ばれ得るのではないかと思うが、問題はその種の「信仰」を保持している人たちが、自身が「信仰者」であるという自覚を基本的には欠いているということである。

 私はいつも、「信仰することがそれ自体として全て悪いとは思わないが、自分の信仰を自覚していないことは問題を生じやすい」と言っているけれども、これはなぜそう思うかというと、「自身の信仰に自覚がない人」は、基本的に己の価値判断に責任を取らないからである。

 小林秀雄は、「信じるということは責任を取るということだ」と言っていて、これはそのとおりだと私は思うのだけど、自分が信じて価値判断をしていることに自覚がない人は、そうした己の信憑を事実や論理の問題であると思い込み続けることで、自身の責任を回避しようとする。だが、いくらそのように言い張ってみても、それが信仰に基づいた価値判断であることは変わらないのだから、そうした信憑はしばしば他者からの批判を受けることになり、そうすると彼/女たちは、「正しい知識を述べているのに、皆が私を迫害する」と、世を怨むようになってしまうのである。そのことがもたらす害については、私たちが日々ツイッターなどで実際に見ているとおりだ。

 そうした「実害」の側面をさておくとしても、そのように「自身の価値判断に責任を取らないこと」は、何よりも「人としてダサい」ことであると、私は価値判断しているのだけど、これはもちろん単なる私の信仰なので、同意しない人がたくさんいるだろうことについては、仕方ないと思うのであった。


※以下の有料エリアには、先月のツイキャス放送録画の視聴パスを、投銭いただいた方への「おまけ」として記載しています。今月の記事で視聴パスを出す過去放送は、以下の5本です。

 2018年11月30日
 2019年2月16日 part1
 2019年2月16日 part2
 2019年2月16日 part3
 2019年2月18日

 3月分の記事の「おまけ」は、全て同じく上の5本の放送録画のパスなので、既にご購入いただいた方はご注意ください。

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ニー仏

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