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なぜ「人文学」の人たちは原典を読もうとするのか

 最初に用語の定義から述べておくと、ここでいう「人文学」は Humanitiesの意味であって、自然科学(Natural sciences, これを複数形にすべきかどうかという問題はとりあえず措いておこう)、社会科学(Social sciences)と並ぶ、学問領域の伝統的な三分類のうちの一に相当するものである。一部SNS等で繰り広げられている「人文学」(もしくは、「人文系」)に関する言説には、どうもこうした基本的な定義の確認すらなされておらず、そもそも自分が立論のために使用している概念の内包と外延もいまいち明確になっていないのではないかと思われるものが散見されるが、そのような状態で「議論」をしても、知的にはあまり生産的ではなかろうと思う。

 さて、そんなふうに一部SNS等ではずいぶん雑なコミュニケーションの肴にされてしまっている人文学だが、これについて、「理系の学問では、たとえばニュートンの『プリンキピア』を現代の研究者が読む必要は一般にないし、読んだところで現場で評価されるわけでもない。他方で、人文学の人たちはプラトンだのカントだのといった、大昔の人間が書いたテクストの原典を、いまだに直接読もうとする。これには一体なんの意義があるのか」といった疑問が提起されているのを散見することがあった。たしかに、そうした問いには私自身も、リアルで遭遇したことがないわけではない。そこで、私には「人文学」を代表する資格も義理もないのだが、せっかくの機会ではあるから、本noteでこの問題に対する私の視点からの解説をやってみようということが、本稿の趣旨である。

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