都市と空間の敗北

資本主義は都市と共に発展してきた。

都市とは繁栄の象徴で、個人の居住空間としての都市は、ビルやアパートの中に無数の人間が住まうことといっても良い。それは殺伐とした居住空間だ。若者や成功を迎えない貧しい人間たちの住まう居住空間は、とみに貧しい。音、光、風、立地、ひいては不動産の対応に至るまで。しかし、それは現代において都市の摂理だ。都市の摂理とはすなわち競争の原理。成功者がいい暮らしをし、そうでないものはそれなりの暮らしをする。都市は夢を売り、成功の途上にある人間にそういった居住空間を与える。それは学生であり、様々な事情や立場にある大人たちである。

それは競争の原理や若者は苦労をすべしという一律の価値観の元に容認される。間違いではない。しかし、当然だろうか?

都市とはある側面ではビルであり、貧しい人間にとってはチンケな集合住宅だ。少なからず皆がそう思っている。しかし実際はそうではない。成功者は、都市に都市からぬ豊かな家を建て、あるいはよほどチンケではない集合住宅に住まう。

そうでない人々、都市の中のそういった人々は成功を信じ、成功した者からそこを抜け出そうと努める。そうでないものは、居住空間の中に何か熱く黒いものを信じ住まう。住まい続ける。満員電車に、薄っすぺらな壁の満員アパート。それは都市活動の一つの側面であり、エネルギーだ。

これらはどこまでが認められ、どこからは危険だろうか?あるいはこういった考えは、都市の常識なのだろうか?皆が認知していて、その上の今なのだろうか。分かっている上で、正方向に導こうとして今があるとは私には思えない。

壮年老年人口が肥大する中、社会全体から若者や集合住宅に住まい続ける大人が社会から得る共感のパーセンテージは減少し続ける。大家はおおよそ住民よりも若くない。彼らには分からないし、また分かる必要もない。果たして、私は昔の都市の居住空間を知らないが、現代の都市の居住空間は敗北しているのではないだろうか?

コミュティは喪失し、発展時代が遠のき、そこに住まう年代の意見が全体に占める割合が減少し続ける。資本主義の下層から、自由成功の時代にあって平等の名の下に成功を志す少なからぬ数の都市の居住者は貧しい。あるいは、これは直近的問題でしかないだろうが、親祖父母世代の現代の貧困への無自覚さを付け加えてもいい。

貧しい都市の居住者たちは資本主義の成員だが、資本主義の中でのパーセンテージは減少傾向にあり、持ちうる金の側面からも富める者よりも意見力は弱い。それは当然だ。資本主義はそれで良いのだろう。

しかし、資本主義の次の成員であるかもしれない彼ら、そしてこれからも続々と現れ続けるその空間の居住者を様々な要因の内に認められないならば、都市と空間の歪みの中から、敗北が生まれるのではないかと私は考えるのである。


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