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キャリアと現象学~エトムント・フッサールその1:キャリアと学びと哲学と

2010年に社会保険労務士試験に合格して今は都内のIT企業で人事の仕事をしています。社会人の学習やキャリアに関心があって、オフの時間には自分でワークショップや学びの場を主催することを続けています。その関心の原点は、学生時代から哲学書が好きでよく読んでいたことです。キャリア開発や人材育成の研究には、哲学からきた言葉や考え方が用いられていることが少なくなく、哲学の知見の活かし方として非常に興味深いのです。キャリアに関心のある社労士という私の視点から、哲学のことをお話しできたらユニークなのではと思って、この記事を書いています。

自己紹介


エトムント・フッサール

今回はエトムント・フッサールという哲学者と彼の始めた「現象学」という哲学の一つの領域についてお話をしたいと思います。

現象とは、すなわち、現れてくるもの。目に見えたり、耳に聞こえたり、五感で感じられるもののことです。英語では「フェノメノン」(phenomenon)なので、「フェノメノロジー」(phenomenology)と呼ばれます。

この現象学、学習や人材育成、キャリアといったワードに興味のある方には、どこかで聞いたことがある言葉かもしれません。

中原淳先生と中村和彦先生の書かれた「組織開発の探求」という本では、組織開発の源流となった3人の哲学者や思想家の名前が挙げられています。そこには、アメリカのプラグマティズムの哲学者ジョン・デューイ、精神分析の祖となったジグムント・フロイトとならんで、エトムント・フッサールの名前があります。

フッサールは1859年にハプスブルク家オーストリア帝国のモラビア地方、現在のチェコ共和国に生まれました。キャリアの大半をドイツの大学で送り、亡くなったのは1938年です。彼の始めた現象学は後世に非常に大きな影響を与えています。直接の弟子にはマルティン・ハイデガーがいますし、戦後フランスの哲学をリードしたジャン=ポール・サルトルやモーリス・メルロ=ポンティはそれぞれの仕方でフッサールの仕事を継承し、「現象学者」と総称されるグループを形成しています。


現象学の大革新

では、フッサールの現象学のどこが革新的だったのでしょうか。「組織開発の探求」によれば、フッサールの現象学は「客観性から主観性への大転換」を果たしたものと紹介されています。 客観性をよしとする学問や知恵のあり方から、主観性へと学問や知恵の軸足を置き換えたことが現象学の重要な論点であったと。

フッサールに限らず、プラトンやアリストテレスの時代から、ヨーロッパの哲学が追い求めていたのは確かさ、それも疑っても疑っても疑いきれない絶対的な確かさでした。哲学をはじめすべての学問はその上に打ち立てられるべき土台となる確かさです。古代ギリシア以来、歴代の哲学者たちはそれぞれの仕方で確かなもの(哲学的な言葉を使えば「実在」)を論じてきたのです。

フッサールもまた確かなものについて思考を重ねていきました。そこで彼がたどり着いたのは、「いまここ」での経験でした。「いまここ」で何かを見ているとか、何かを聞いているという、生き生きとした経験そのものこそ、なによりもはっきりしていて、確かなものなのだという確信だったのです。

「いまここ」で経験してる生々しい経験というのは、あくまで「いまここ」で経験をしている個人の経験でしかなく、極めて主観的なものです。誰と共有することもできません。でも、だからこそ、その人にとって、いちばん確かだと思えるものでもあるわけです。

フッサールが生きていた当時は帝国主義の全盛期です。産業革命以来の科学技術が欧米列強をリードして世界中に植民地を拡大していった時代。科学万能を誰も疑わない時代です。すなわち、客観性が絶対優位の時代でした。

科学は世界に起こるあらゆる出来事を数字に変えることを前提にしています。数字にしなければ、計算も、実験もできませんし、再現性もありません。数字を用いることで科学は万人に通用する普遍的な知を導くことができます。科学は客観性の学問の王者とも言えるでしょう。

それに対してフッサールは反論します。たしかに科学の客観性は万人が理解できるものではあるけれど、その代わり、 「いまここ」で生まれた個々の経験の主観的な生々しさは失われてしまう、と。いま抱き上げた重さは、それが子どもか、石かで、経験の質はまったく異なるはずなのに、科学は同じ10kgの重さなら同じ10kgとしてしまうのです。

フッサールにすれば、量化された経験は誰にも共有できるものであるけれど、誰のものでもない経験でしかありません。彼は、客観性を疑いえない確かさと認めるわけにはいかなかったのです。だから、絶対に確かだと確信できる主観的な経験の上にこそ自身の哲学を打ち立てなければならなかったのです。


キャリアと現象学

客観性から主観性への大転換。フッサールの現象学は、誰もが計測できる数字から、他の誰でもない誰かだけの経験へ、要するに、量から質への転換だったというわけです。

では、どうして、その現象学が学習やキャリアに重要な影響を与えたのかということですが、客観性から主観性へ、量から質へという移行が、私たちの経てきた学習と同じステップを踏むからではと私は考えています。

私たちが、小学校、中学校、高校、大学受験までしてきた勉強は量と客観性の勉強でした。学習の成果はテストの点数で計測されて、通知表の1から5とか、内申点とか、偏差値とか、すべて数字で評価されてきました。

学年順位が1位、2位、3位と優劣がはっきり現れる。評価の尺度が単一で明瞭。それが小中高までの学習だと言えるでしょう。でも、大学を卒業して就職活動をするようになってくると、そうもいかなくなってきます。

最近の就職活動では「ガクチカ」という質問が鉄板と言われます。「学生時代に一番力を入れてきたこと」を尋ねる質問です。この問いは答えるのが難しい。なぜかというと、量で測れないからです。

「ガクチカ」の答えは、人によっては「ゼミ活動頑張りました」かもしれないし、あるいは、「サークル活動の代表をやりました」かもしれないし、インターン、バイト、留学、ボランティア、あげていけばきりがありません。

ゼミ活動に力を入れた人だってゼミ活動だけしていたわけではないでしょう。ゼミ活動のほかにもサークル活動をしたり、インターンをしたりしていたはずです。でも、「ガクチカ」の答えとして選ぶものがゼミ活動だということに、究極的には客観的な理由はありません。

このように「ガクチカ」には共通の量的な尺度は存在しません。ゼミ活動をがんばったら50点で、サークルの副代表は30点で、代表までやったら70点とか、誰も決めることはできないわけです。そんな量的な尺度はどこにもないのですから、自分で決めなければいけません。自分で決めるとなれば、それはどこまでいっても主観的な決定でしかありません。

誰も量的な正解をくれない。就職活動で思うような未来を得るために努力をしようにも、どのような学習をして、どのような結果を出せばよいのかは定かではない。それが大人の学習の難しさです。量的に計測される世界から、質的な経験の意味を問われる世界へ。この移行に適応できないと、人生の門出にかなり苦しい思いをすることになってしまいます。

社会人の転職活動にもなれば「あなたが前の職場で達成した成果はなんですか」「あなたがこの新しい職場に転職してどんなキャリアアップをしたいですか」といった質問に対して明確に応えられないと、まず採用は望めないでしょう。でも、自分が何をすべきかとか、これから何を学んでいくべきかといったことは、けっして量では測れません。自分しか決められないことです。

成人学習やキャリアの理論を勉強していると、自分のキャリアに対して自分で意味づけをすることの重要性に繰り返し出会います。テストや検査で客観的に測れる数値を上げていくことが成長の評価であるとの主張にはまずお目にかかれません。自分の経験を量化して証明するのではなく、主観的に意味づけていくプロセス、それが大人の学習には不可欠なのです。それはきわめて現象学的な営みだと言えるでしょう。そして、フッサールと現象学は意味づけていく力こそ主観性の偉大な力として肯定していくのですが、その話はまた後日にお話しすることにしましょう。


【了】


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