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永遠回帰と肯定の哲学~フリードリヒ・ニーチェその3:キャリアと学びと哲学と

2010年に社会保険労務士試験に合格して今は都内のIT企業で人事の仕事をしています。社会人の学習やキャリアに関心があって、オフの時間には自分でワークショップや学びの場を主催することを続けています。その関心の原点は、学生時代から哲学書が好きでよく読んでいたことです。キャリア開発や人材育成の研究には、哲学からきた言葉や考え方が用いられていることが少なくなく、哲学の知見の活かし方として非常に興味深いのです。キャリアに関心のある社労士という私の視点から、哲学のことをお話しできたらユニークなのではと思って、この記事を書いています。

自己紹介


永遠回帰

ニーチェの哲学にはゴールはありません。たどり着けば終わりにできる最終地点はありません。言い方をかえれば、何度でもスタートを繰り返さないといけない哲学です。人生にあっては、何度でも自分の不完全さと向き合って、完全にはなれない自分を受け入れていくことが、大事なことになります。

ニーチェの哲学に「永遠回帰」という言葉があります。同じものが何度も何度も帰ってくるという意味で、理解の難しい言葉でもあるのですが、終わりを認めないニーチェの姿勢から理解ができます。

ニーチェの生きた時代は、革命という言葉がまことしやかに力をもっていた時代でした。皇帝が君臨する封建的な国は腐敗しているとか、資本家が支配する資本主義社会は腐敗しているとか、そうした言葉が広く支持されていました。だからこそ、古く悪しき社会や国家を打倒して新しい国家を打ち立てれば、素晴らしいユートピアがやってくるという言葉も信じられていました。

革命が待ち望まれてもいたし、実際起きたりもした時代ですが、では、革命の先が本当にユートピアだったかというと、革命を起こした人物が次の権力者となって独裁をしたり、権力が腐敗したりとか、目をそむけたくなる事象は繰り返し起こるわけです。結局、人の世の悪しき部分というのは帰ってくるわけです。それは人間のもつ本来的な弱さや不完全さが生み出すものでもあるでしょう。

人間がどれほど自分自身を乗り越えようとしても、何度でも弱さや不甲斐なさは帰ってきてしまいます。不完全さを払拭した自分にはなれません。ただ、なれないけれども、それが自分の人生であるし、 逃れられないもの、いわば「運命」ならば、受け容れるほかはないのです。こうして何度でも同じものが帰ってくること、それが永遠回帰です。

そして、同じものが帰ってくる永遠回帰は、 逆説的に、いつまでも同じではいられないということでもあります。人生のゴールにたどり着いたかに見えても、そこで、また新しい困難に出会ってしまう。そうなってしまえば、いつまでも同じ場所に居つづけるわけにもいきません。ゴールだと思いたかった場所であっても、一旦離れて、別のやり方を考えたり、そうして、自分が変わろうとしないと、新しい問題にずっと縛られてしまうことになります。

何度も何度も自分の弱さや欠点と向きあったり、あるいは世の中の無意味さとか不条理さとも向きあったりして、同時に、苦しいままで居つづけたくないなら変わっていかなければならないし、困難でも、繰り返しスタートを切っていくしかない。永遠回帰とは、そうした人の世の営みのことなのです。

話を元に戻すと、自分自身の不甲斐なさとか、不完全さとか、世の中の汚さや不条理とか、そうした一切を自分のこととして引き受けて、 「これこそわが人生」と受け容れて生きていける人、頑張っていける人こそ「超人」です。どんな人生であっても、自身の人生に「イエス」と言って肯定できる人です。それが超人です。

ニーチェの哲学に否定はありません。ただ肯定だけがあります。


中年のための哲学

ニーチェの哲学はどこか「中二病」っぽい雰囲気があるというお話を以前いたしました。中二とは中学2年生ということですが、ニーチェ自身の哲学を読んでみると、中二というよりはむしろ中年の哲学なのではと思えてなりません。

中二はまだ十代の若い時期です。自分の人生こうなったらいいなとか、あんな職業に就きたいなとか、夢を描いたり、希望をもったりする時期です。それは若さの特権。すごくよいことです。でも、そこから何年も生きてみると、うまくいかないことの方が多くて、 思っていたのと違う人生になってしまったなとか、想像していたのと随分違うところに来てしまったなとか、そういうことばかりです。これがいいかと思ったら裏目に出たり、そっちがいいかと思ったら遠回りだったり。紆余曲折あるものです。でも、そうしてたどり着いた「いまここ」の場所が自分の人生です。それは否定しようがありません。自分自身の生きてきた運命なのです。

誰だって好き好んで悩んだり迷ったりしません。自分が望んだ人生ではなかったかもしれません。でも、この人生を愛してあげられるのもまた自分自身ではないでしょうか。ニーチェは晩年「運命愛」という言葉を使うようになります。

キャリアという文脈においてみても、仕事がうまくいかなくて転職するということはよくあります。当初は希望をもってついた仕事でも思うようにならず転職したり、やむにやまれぬ事情があって転職したりして、ジグザクな履歴書ができてしまうということはあります。そして、それを好まない人事や面接官もいるもので、転職の面接の際に「経歴に一貫性がないですね」と偉そうに言われたりもするわけです。

人の履歴書を見てきれいだ、きれいではないと勝手なことを人は言います。でも、そこで「自分の人生の程度が低かったんだ」「価値がなかったんだ」と思ってしまうとしたら、すごく悲しいことではないでしょうか。自分の人生の評価を、その意味を他者に預けてしまってはいけないのです。人が何と言おうと、自分の人生を受け容れて愛してあげられるのはやはり自分だけだと思いますし、自分が愛してあげなかったら、受け容れてあげなかったら、きっと誰も受け容れてはくれないでしょう。

その時々でうまくいかないことがあって、そのなかで頑張ってきた結果が「いまここ」だとするのなら、それが自分の人生であることに間違いはないし、その人生を愛してあげるのも、また自分の人生を引き受ける強さです。

他人になんと言われても自分の人生は強い心で愛していこうというところにニーチェの哲学のエッセンスがあると私は思っています。だから、ニーチェの哲学はすごく厳しいものだけれども、同じくらい優しさもあるものだと思えるのです。それは数多くの失敗や挫折を経てきた人にこそ届く哲学ではないかと思います。中二のためというよりは中年のための哲学だと私が思う所以です。


何者にもなれなくても

自分の人生を最後に愛して受け容れてあげられるのは自分だけ。だから、自分の人生を精一杯肯定しよう。この「運命愛」の哲学は、キャリアについて考える上でも大事なことだと思います。

人間のキャリアのすべてが意味に溢れたものではありません。ここで意味というのは、転職活動の面接で「たいへん素晴らしい業績を残してこられましたね」と面接官に評価されるものであったり、あるいは、社内で高く評価を受けたり、要するに履歴書や職務経歴書にわかりやすく書けるということです。 

でも、誰の目にも高く評価されることばかりが人生ではありません。履歴書に書けないような苦労もたくさんあるものです。でも、意味がないからとそれらの苦労を否定して、価値がないと切り捨ててしまえば、たいへん残念なことではないでしょうか。

ニーチェの哲学は、人生に意味も価値もないと厳しく断じる思想です。でも、それはある意味、反対側から見てみれば、他者に意味や価値として認められないような人生の様々な出来事であっても、それを自分自身の人生として、キャリアとして、愛しむこともまた許しているということではないでしょうか。

ニーチェの哲学にはゴールはありません。だから、ゴールにたどり着けない人生もまた否定をしません。本当の自分とか、真実の自分とか、輝かしい自分とか、理想の自分とか、そういう自分であることを求めることはありません。

メジャーリーガーとか、アカデミー賞を受賞するとか、そうしたキラキラした存在に誰もがなれるわけではありません。そうではない人の方が圧倒的に多いでしょう。なりたいと願ったわけでもない、望んだわけでもない、そういう自分として生きている人の方が多数ではないでしょうか。そういう意味では、キラキラできない、薄ぼんやりとくすんだ自分を抱えて生きてる人が大多数だと思います。

それでも、人生は一回限りです。しかも、理由や必然性も何もなく、偶然に生まれて偶然に死んでいくだけの人生です。でも、自分しか生きることができない自分ひとりの人生なのだから、「いまここ」に生きている自分の人生を「イエス」と肯定しようではないですか。これを否定してしまったら、一体誰がこの人生を肯定してくれるのでしょうか。どんなに辛く苦しいことがあっても「ノー」ではなく「イエス」と認め、受け容れ、愛していく。それこそ強い存在、超人なのです。

多くの人が「何者かになりたい」と願う現代社会ですが、「何者になれなくてもいいのだ」「何者になれなくても、自分の運命をイエスと愛してあげられるなら、そうできる人こそが本当の強い人なんだ」と教えてくれるニーチェの哲学は、現代社会でキャリアを築いていかなくてはならない私たちにとても価値があるのではないかと思うのです。


【了】

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