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長編アニメーション作品としての「君の名は。」に関する一考察--真実性と物語性の致命的欠如

 皆さん、ご無沙汰しております。

 最近、友人とたわいもない会話をしている際に新海誠監督の作品の話になり、以前映画.com上にアップロードした評論の存在を思い出したので加筆修正してみました。

 今読み返すと、根拠が明瞭でなかったり、論理構成が危うかったりする部分が多々ありますが、「君の名は。」に対しての(筆者個人の)おおよその所感は今も昔も大差ありません。

 ちなみに、近作「すずめの戸締まり」は、以下に論じている「内なる世界」を描いた作品群とは異なる位置付けの作品であり、大変面白く鑑賞しました。筆者は「もののけ姫」前後のジブリ作品を愛してやまないのですが、「すずめ」にはそうした作品群に近しいものを感じました。機会がありましたら、「すずめ」についても論じてみたいと思います。

 以下、「君の名は。」について、その作品構造の大部に関し批判的内容を含みますので、苦手な方は自衛されることを推奨します。

「秒速5センチメートル」にみる新海作品の特異性

 新海誠監督の作品鑑賞は、「秒速5センチメートル(以下、秒速)」以来である。

 本論に入る前に、新海作品に共通する特異性について論じておきたい。その際、最もその特徴が顕れていると思われるのが「秒速」である。

 「秒速」は、主人公2人の「内なる世界」を描写した物語であった。

 2人を異物として切り離すクラスメート、息苦しさの根源的要因として描かれる現代社会。その対立構造が、2人の関係性に一層の特別感を演出し、短編作品としての完成度を際立たせるのに極めて効果的に作用していた。

 2人の「内なる世界」の特別感を演出するため、それ以外の登場人物や社会そのものが2人にとっての「異物」、「外なる世界」として描かれた。それ故に、物語の世界から完全に孤立した「内なる世界」には確かな特別感があった。

 「秒速」は短編作品としての完成度や質が極めて高い。ただ、そこにはリアリティやストーリーテリングといったものの存在がないことも見逃せない。

 「内なる世界」で紡がれる2人の関係性、その特別感を演出するために、「外なる世界」のすべての事象は、機械的な記号として描かれていたし(=ストーリーテリングの欠如)、それ故、世界からはリアリティが欠如していた。けだし、僅かな時間と登場人物を以って、「内なる世界」で紡がれる2人の特別な関係性には、浮世離れした不思議な魅力が確かに存在したし、その幻想的な世界観の演出を目的とした短編作品には、そもそも、真実性(リアリティ)も物語性(ストーリーテリング)も必要なかったのである。

真実性、物語性の欠如からくる違和感

ⅰ. 証明困難なリアリティ

 「君の名は。」も、「秒速」と同様に瀧と三葉の「内なる世界」を描写した作品であった。ただ、両者には決定的な違いがある。長編作品なのか、短編作品なのか、という点である。そして、両者に共通するのは、やはりリアリティとストーリーテリングが致命的なまでに欠如している、ということである。順を追って説明を加える。

 作品評論において、リアリティとは「現実性」を指す術語ではない。アニメーション作品は、アニメーション作品である以上、かなり広範な形で奇跡の存在が許されているし、筆者もSF(サイエンス・フィクション)作品を好んで鑑賞する。

 リアリティとは、すなわち「真実性」である。

 「君の名は。」に登場する瀧や三葉が生活する「空想の世界」が、如何に真実性(リアリティ)に富んでいるか、そういった意味合いで受け取っていただけると、本論評を理解するのための補助線となろう。

 閑話休題。「君の名は。」に描かれる「空想の世界」のどこが、どのように、リアリティに欠けているのであろうか。

 男女の心身がリバースする、という設定はごくありふれているし、そこは焦点では無い。ここで問題とすべきは、一度も顔を合わせたことのない男女が、如何にして、尋常でない--ある種の狂信的さをも感じる--ほどに恋い焦がれ合うような仲になったのか、という素朴な疑問である。

 リバースを重ねる度に互いの存在を意識し、求めるようになったというのであれば、常識に即して考えると、声を聞きたい、実際に会いたいと思うのが自然である。そうした一切のプロセスを経ず、瀧は、未だ顔を合わせたことのない三葉のために尋常でない労力(コスト)を払う割に、三葉の父親である町長には、あっさりと引き退る。

 物語の筋書きに、ここまで致命的なまでにリアリティの存在がないのは鉄樹開花の感を覚えざるを得ない。真実性の証明が困難な場面(シーン)が多すぎるのである。

ⅱ. 欠落したストーリーテリング

 ストーリーテリングはどうであろうか。

 たとえば、瀧の考えを追認し、無償で支援する友人たちの存在を想起してほしい。親しい友人であれば、瀧の考えを易々と、全肯定ないし全面的に追認するとは考えにくい。であるなら、瀧の考えを、思考停止のままに追認する程度の関係の浅い友人が、何ら利益を得ない無償の支援を行い得るであろうか。

 漠然とした違和感は、ストーリーが終盤に進むにつれてより強度を増していく。

 意味深げに画面に映る巫女は、神社は、美しい場面描写の数々は、何か物語の根幹部分を成していたであろうか。世界で唯一人、隕石降下の危機を知るはずの瀧が、尋常でない労力を払った挙句、町長の説得を殆ど試みことなく、そう易々と引き退るのが自然といえるであろうか。

 物語一切から、ストーリーテリングが感ぜられない。この作品に物語性があるのか、と問わずにはいられないのである。

 SF作品としての作り込みの甘さについては、屋上屋を架す行いとなろうから、深入りはしない。しかしながら、「内なる世界」を描くという目的に対し、SF作品としてのリアリティを追求したり、原因結果の流れを注意深く検討して意味付けを行ったりする作業--これこそがストーリーテリングそのものである--が施された痕跡は確認できない(次節を読み進めていくと、筆者が言わんとする事を自然と理解していただけるはずである。)。

違和感の正体と物語としての死

 筆者は前節の冒頭において、「君の名は。」も「秒速」と同様に、瀧と三葉の「内なる世界」を描写した作品である、と指摘した。

 そこで、ここまでの検討事項を振り返ってみると、2人の特別な関係性の演出を目的とした作品である長編アニメーション作品「君の名は。」には、リアリティもストーリーテリングもはじめから存在し得なかった--新海監督は物語成立の前提となる二つの要素を一切考慮しなかったのではないか?--との仮説の輪郭が浮かび上がってくる。

 「内なる世界」で紡がれる2人の特別な関係性を演出するためには、友人も、家族も、街も、風景も、隕石ですらも、それをより効果的に引き立てるための記号に過ぎない。それならば、そこには真実性も物語性も存在しないし、寧ろ存在する必要はないのである。

 そして驚くべきことに、「内なる世界」の特別感を演出するという目的を完遂するためには、瀧は瀧である必要はなく、三葉は三葉である必要もない--。2人もまた、「内なる世界」の特別感を演出するための記号に過ぎないからである。

 それ故に、ストーリー序盤でリバースがコメディのように描かれ、恋愛作品としてのリアリティすら感ぜられないように思われても、終盤にかけて、瀧は実際に会ったことのない三葉に酷く恋い焦がれ、尋常でない労力を払うといったストーリーテリングの欠片もない行為に及ぶことが可能なのである。

 以上が、作品全体に漠然と漂う違和感の正体である。

 「君の名は。」という物語は、「内なる世界」の特別感を描写してきた新海作品の一作品に過ぎない。然るに、「秒速」を評価しておきながらも、同様の体裁をとる「君の名は。」の評価を☆1とするのか。

 答えは、明瞭である。

 「君の名は。」は、長編アニメーション作品としての体を成していないからである。筆者にとって「君の名は。」は、PV(プロモーション・ビデオ)を長編アニメーション作品に引き延ばした、といった印象しか持ち得ない。

 「君の名は。」のアニメーションとしての美しさ--映像美、映像音楽の完成度の高さ--は疑いようがない。近年公開された他の(評価の高い)アニメーション作品と比較しても遜色ないか、それを凌ぐ品質を誇るといっても過言ではない。ただ、「君の名は。」はあくまで"長編"アニメーション作品であることを忘れてはならない。

 短編作品において、真実性と物語性の欠如が許容されるのは、PVないしMV(ミュージック・ビデオ)、はたまたCM(コマーシャル・メッセージ)が、非物語的なアプローチでの制作が許された芸術作品であるからである。それが、長編作品との最大の違いであり、そうした意味において、「君の名は。」は、長編のアニメーション作品として評価の仕様がない。

 長編アニメーション作品をはじめとした映画(ここでは便宜上90分以上の長尺の物語性を有した映像作品を指す術語として用いる)一般において、真実性と物語性が欠如しているということは、当該作品内の世界観が細部まで作り込まれず、登場人物が感情を持たない記号として存在することを意味する。

 ここまで貴重な時間を割き、筆者の手による取り留めのない評論に目を通してくださった読者諸氏であれば、それが物語としての死を意味することを、十分理解していただけるものと信じる。

 ※ヘッダー画像は、瀧が三葉に会いに行く駅のモデルとなった飛騨古川駅=Wikipediaより

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