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日記(2024/03/16)

運営している将棋教室で、小学6年生が卒業していった。
生徒が3人しかいなかった時に来てくれた彼は
いつも穏やかで、彼のなんかはっきりしない話し方が好きだった。
(悪口じゃありません 笑)
「おっとり具合が、周りの子にいじられるんじゃないか」と心配になり、
おせっかいなんだけど、話をしっかり聞いてあげたい、と思わせる子だった。

話すといつもおどけてふざけてばかりなんだけど、
そういう一面を小声で話すもんだから周りはあまり知らないのかもしれない。
その側面を知っている者としての優位性も相まって、いつも応援していた。

将棋に対して、ゴリゴリにやってたかっていうとそんなこともないんだけど、
ちゃんと少しずつ成長して、ちゃんとやり切った感じがあって
彼の卒業が、今日は私の肴。

ところで、彼のように、黙々と、淡々と続ける子がいれば、
がむしゃらにのめり込んで、燃え尽きる子もいる。
一方で親だけが先走って、子どもが置いてけぼりな子もいる。

将棋に限らず、職業柄いろんな子どもと保護者を見てきたけれど
親は子どもがやりたいことだけやらせればいいのだと、つくづく思う。

将来のために、とか、学校で置いていかれないように、とか
親なら一度は思うことだと思うけれど、ちょっとやる気が落ちてきた時とか、将棋で言えば勝てなくなってきたり、後から入ってきた子に抜かされた時とか、
そんな時に、「踏んばる力」が今ひとつ足りないのは
「やらされている子」だと思う。

ある動画で、サッカーコーチが子どもたちにこんなことを語っていた。
「スパイクを自分で洗ってるか?ユニフォームを自分で洗っているか?」
「やりたいのは誰だ?」
「サッカーがしたいです、だから、お母さん、お父さん、クラブチームまで、送ってください、が正しい形だ」

この言葉が現代の小学生に響くのか不明だが、核心はついてるとおもう。
結局、やりたいのは誰か、といった時に、「僕だ」「私だ」って言えないなら
それはおまけ・遊び、なわけで、教室にあれこれ求めるのはおかしいのだと思う。


習い事の講師、運営という立場になる前は、「そのやる気にさせるのも講師の役目」と思っていたけれど、子どもだって馬鹿じゃない。
やりたいこと、惹かれることくらい、自分でわかるんじゃないだろうか。

ちょっとした不機嫌に上手に誘導するのは、確かに講師の手腕だと思う。
でも、根本的なやる気・興味まで操作することは、難しいな、と思うのでした。

だから、「行きたい!」と言ってくれる子にとっては
いつも「ちゃんと安心できる」「心許せる場所」でありたいです。
(将棋も積み木も、ひろばも、大人も、子どももね。)

では。

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