見出し画像

ギターと解釈の宇宙

 文字を書く傍らで、男児たるもの楽器の一つや二つ嗜んでおかねばならぬという強迫観念からギターを弾いている。
 かつては文章表現の拙さの逃げ先としてあったギターであったが、自分の技量の拙さと向き合い、こうして文章を書く癖をつけ始めてからは純粋に趣味として楽しむことができるようになってきた。
 私がギターを弾くとき、歌詞の上に押さえるコードがただ描かれただけのサイトを利用している。
 そこに弾く時のストロークは斯くあれかし、という指示はない。お世話になっているサイトにすら金を払わない恩知らずな私は、与えられない分想像力で物事を進めるしかないのだ。
 よく他人に、物事に対する想像力が足りないと言われる。確かに想像力が足りないことは認めよう。私の想像力は、後にも先にもリカバーの効く状態では発揮されることはないのだ。元々の私は非常に臆病で慎重な性格だ。素早さとか上がりそうな性格なのだ。
 受験票を忘れていないか五、六度確認した私の性格については脇に置いておくとして、偶然ながら生まれたそのギターのストロークの不明性は、私に解釈の余地を与えた。
 無論動画サイトで調べればそんなもの一発でわかってしまうかもしれないが、私は面倒くさがりだし飽き性なので、適当に弾き散らしてはすぐ次の曲に行ってしまうので一々調べるのも億劫なのだ。割かなくていい労力は割きたくないのだ。
 その面倒臭がりが産んだ解釈多様性は、案外楽しいものであったりする。
 ロックをアコースティックで弾くとき、単にエレキギターのメロディをなぞるだけではどうにもならない。 
 コードは決まっているから、それを自分の聴いたメロディをなぞるように弾くだけなのだが、その時の弾き方というのは先人の斯くあれかしを見ていないが故に一義に定まらない。ダウン一回でもいいし、アルペジオでもいいし、アップダウンを素早く繰り返してもいいし、いわゆる綺麗なストロークで弾いたっていい。気分で変えていいのだ。
 ただし、この自由解釈は小説のそれとは違い作者を離れたものになりがちである。まあ勝手にやってるだけで誰かに発表する気もないから、こういう性質を帯びたのかもしれないけれど。
 小説の解釈は、作者の背景から離れずに済ませるべきものだろう。対して私のギターはバラードを勝手に速いテンポで弾いてみたりする勝手なものだ。故に、私の好む小説解釈と楽器演奏とは対極に位置しているのかもしれない。いや、楽器演奏を勝手に解釈とした私の考えが間違いで、これは一つの発現行為なのだろう。小説解釈ではなく、小説執筆のほうに近しいのだろう。
 小説も私の中の世界の解釈論で、演奏も私の中の音楽観の発現なのだろう。
 ともあれ、ストロークが不明なせいで私が解釈の宇宙にほっぽり出されることもしばしばである。
 不況を乗り越え、あのサイトに昔のような無料機能が戻れば事もなしである。今日もまた私は花唄を謡う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?