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青嵐のあとで、について

痛みを感じるほど鮮烈な、憧憬たる青春。
後悔の切っ先が心を抉るような。
そんなsajou no hana というアーティストの、この曲をご存知だろうか。
本楽曲との出会いは、アニソンとしてであった。
とある科学の超電磁砲Tのエンディングソングとして作成されたこの楽曲はしかしながら、学生・御坂が超常の隣で歩んだ青春の先が明るいものであると謳うものではない。
あくまで曲自体は、作品と分離しているような印象だ。
あくまで私見だが、大人目線で子供時代への憧れを、子供時代の無邪気さを冷めた目で見ているような、そんな楽曲なのである。
起こることが予めわかっていて、その行動をしたらその結果ああなる、というような全てがわかっている、そんな未来から遡行不可能の過去へ超常的な視線を投げかけているのが本楽曲であると言えよう。

私がこの楽曲と初めて出会ったのは確か高校二年か一年の頃である。
当時の感性としては、遥か先、自分の将来から遠い昔を懐かしんでいるような世界観であると断じてしまった部分もあった。
だが、現在この楽曲を再考して見るに、この楽曲が憧憬を投げかけている元の地点というのはそんな未来ではないと思うのだ。

おそらく、それは社会人になってすぐか、少し経ってからのこと。
忙殺される日々、電車に乗ると部活帰りらしい学生が数人ではしゃいでいて、それでふと思い出すのだ。人生の黄金期であった、あの青春を。
極論を言ってしまえば、青春時代なんてどこに設定してもいい。
学生時代暗黒期であった者にとっては社会人になってからのほうがそれは青春であるかもしれないし、いつだっていいのだ。
ただ学生時代の青春は、未熟であって、過ちを繰り返した分、遡行不能である分、馬鹿だったなと思う分、その時の自分にはもうなれない。
時間だけ仮に戻れたとしても、そこの時空にいる自分は、妙に達観して、間違いなんか起こさないであろう、日々に対するドキドキが滅されたような乾いた自分だ。
故に、私は青春の定義様々なれど、この楽曲が指す青嵐、青春とは、バックにある作品の世界観も考慮した上で、学生時代のものであると言えよう。

間違えるのが青春で、戻れないのが青春だ。
もうどうにもならないからこそ、日々は美しい。

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