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此此斯ういう次第で

太宰のもの思う葦を読む。
文学とは思いつきをダラダラと述べることをも内包するのだと気づく。
私の書き方の根底には、太宰の文章の書き方が存在しているようだ。無論ある、と書いて消したので必然ではないようだ。

尊敬、憧れ以前に、人は模倣の生き物であるから、先生なんて偉い人間が小さい私にこの人たちは文豪と呼ばれていて、偉いのですなんて教えたもんだから、すっかり太宰の文章が偉いもんだと刷り込まれちまってたようです。
もっとも太宰は人を惹きつける文章を書きやしますが、偉いかと言われると太宰より偉い人間なんて星の数ほどいるのです。
文豪なのに、星の数です。
私もその星の一つじゃないかしらんと錯覚するほどであるが、自分を偉いだなんて思う人間は大抵が傲慢だ。尊敬出来るのが自分だけの人間は幸福かもしれないが、それはそれ。

そも、もの思う葦の構成自体が良い。
思いつきの連鎖、話途中に違う内容にすり替わるトリッキー、気づけば話が終わっているサドンリイ。韻を踏み損ねてやしませんでしょうか。私は、ラップが苦手です。聴くは良し、しかし自分でやるにはどこか難しそうです。

気づいたのですが、どうにもですます調が出てくるようです。もの思う葦の中の太宰の語り口を真似て書いていたつもりでしたが気づけばです、ます。やはり人間失格の影響こそ私の中で大きかったようです。

かれこれ述べましたが、結局言いたいことは、思いつきを文にして書き連ねることにしたという決意です。
小説より、こっちの方が性にあってるのかも知れやせん。

締めの言葉も思いつきませんで、草々不一。

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