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遺作

僕はバンドマンだった。
最後にライブをしたのはもう遠い昔の話――とか思ってたけど、去年の3月にやってた。
ギリギリの時期だった。

ギリギリ、というのは言うまでも無く新型コロナウイルスの流行の波の話で。
個人的には2019年末から中国で新型のインフルエンザが流行っているという話はキャッチしていたので、日本に来るのも時間の問題だと感じていた。
その後、年明けにはクルーズ船の中でのパンデミックが発生、未知のウイルスに情報が錯綜して大混乱を期したのは記憶に新しい。

その時期はまだ国内上陸はしていないような感じで、何とかクルーズ船までで堰き止められているような感覚ではあった。
が、その後の状況はご存知の通り。というわけで2020年3月のライブというのはギリギリだったのだ。
ちょうどライブハウスでの感染者が発生し、ライブハウスの環境等が悪く言われ出した時期とも重なる。

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こんな状況じゃバンドどころじゃないな、と僕は思った。
少なくとも当時の状況だと、完全にライブハウスは悪者扱いだ。そんな肩身の狭い状況での活動は困難を伴う。

僕はその時点ではバンドを組んでいなかった。
厳密にはユニットを組んでいるんだけど、それはまぁ割愛。
いずれにしても派手に動かしていくのは得策ではないと判断した。

そして僕は影を潜めた。
表に立つことなく、事態の収束まで待機する事にした。

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そんな中で、もしかしたらもう今までのように活動は出来ないのじゃないかと思ったりもした。
「また落ち着いたらバンドでもやりたいなー」とか考えているけど、でも降り続く雨がもしも止まなかったら?確率はゼロじゃない。
奇しくも"with コロナ"なる言葉も生まれた。降り続く雨とともに生活をし、それらを受け入れながら対策をしていく――という話だ。

そうなったら果たして自分は活動をするのだろうか。
その答えは敢えて出していない。

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もちろん、そんな中でも活動を続けるバンドは多い。

それぞれにフィロソフィーを持って、活動している。
僕はそんな彼らをリスペクトする。さながら、吹雪の中を進む冒険家だ。

ただ、中には流されているだけのバンドもあるけど。
一見すると立ち向かう風のスタンスだが、言動が一致しなかったり。「ちゃんと対策しましょう」と表では言いながら裏ではどんちゃん騒ぎで打ち上げをしたり。という方々も一部では見られた。
まぁそれは良い。新型コロナウイルスが流行しようがしまいが、元々そういった人たちには美学が無い。

そういう少数派を除き、この逆風の中を突き進むのは尊敬に値する。
僕はそのバイタリティを持ち合わせていなかった。

僕は活動を辞めたが、活動を続けるバンドに対してとやかく言うつもりも無いし、否定もしない。
それぞれが己の哲学を持ち、理念に従って動いているならば、それが全てだと思う。

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思い返せば、僕は中々に贅沢な体験をさせていただいた。
北は仙台から、南は博多まで、ツアーでぐるりと回ったのは一度ではない。
ワンマンも多くやらせてもらったし、大きなライブハウスでもやらせてもらった。

贅沢な体験だ。
これらの体験ですら、バンドマンの中には願えど叶わない人が大多数だろう。
そんな体験をしながらも、まだ活動をして更なる高みに思いを馳せる事すら、既に贅沢だとも思う。

これ以上、何を望むのか。
いや、望めどキリが無い。僕は十分だ。

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かくしてステージを降りた僕は、何者でも無くなった。
これは、ショービズの世界を駆け抜けた僕にとっての「第一の死」である。

第一の死があれば「第二の死」もある。
第二の死は、忘れ去られる事である。

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皆の記憶から僕が崩れていく。
明確だった顔の印象もやがて薄れ、声も、印象も、輪郭も、性格も、全部が無へと戻っていくだろう。

第二の死を迎える前に、折角だから何かをやりたいなと思った。
そんな折に、「ayuクリエイターチャレンジ」というものが始まった。

「ayuクリエイターチャレンジ」とは、浜崎あゆみの楽曲のうち100曲のアカペラデータが無料公開され、それらを使って編曲が出来る、というもの。
なんと贅沢な企画。一流アーティストの楽曲100曲分が無料で誰でも入手できるのだ。

僕の周囲でもちらほら「この曲をアレンジしました!」と言う作品を見かけるようになった。ほほう、面白い。
ならば僕はこの公開されている曲全部をアレンジしよう。それも毎日1曲ずつ作成して。

元来、僕は負けず嫌いだったのかもしれない。
正直、僕の周囲でayuクリエイターチャレンジを行っている人が居なければ、参加しなかったと思う。
他の作品を見たせいで、やりたくなったのだ。

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毎日、無心で、一人きりの部屋で彫刻を彫り続けるかのように作業を進めた。
そして、100日間の間、一日たりとも欠かすことなく確実に作曲と公開を続け、走り抜けた。

僕を動かし続けた原動力は、負けず嫌いな心だったのかもしれない。
いや、そしてもう一つ。僕は僕にふさわしい"終わり"を先に決めたかった。

終わるとき、ボロボロになってヨボヨボで見苦しく散るのは嫌。
綺麗に、かつ自分で終わりを決めたい。

そもそも他者や外的要因に終わらされるくらいなら、自分で、この手で自分に終止符を――。

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終止符を放ち、僕は満足感と走破の余韻に浸った。
100曲を100日連続で作った者にしか分かり得ない、限られた者だけが味わえる満足感だ。これほど贅沢な物も中々無いかもしれない。

機を図り、また何か行動を起こすかもしれない。
しかしそれは未来の話。まだどうなるかは分からない。

僕は一旦、ここに塚を作った。悔いが残らない様に。
誰にも崩されない、奪われない塚。今は一点の悔いも無い。

もし仮にこれを遺作としても、おおよそ後悔は無い。

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