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肥大化した古着アーマーがアニエスベーという毒針で粉々に砕け散った日


 2000年11月。21世紀を迎えたその年、29歳になったばかりの私とK子は、当時私が住んでいた三軒茶屋のひび割れた暗いマンションの一室で、自分たちにしかわからない試行錯誤をしていました。100円ショップで見つけたいびつなパーティグッズ、用途のわからない雑貨、渋谷地下街の婦人服屋の店頭ワゴンでK子が掘り当てたくちびる模様のラメシャツなどを持ち寄って、試し撮りしながらゴソゴソと話し合っていたのです。

 この頃の私は、これからどうしたらいいのかわからないけれど、死ぬよりはマシ、と、少しやぶれかぶれな、けれど案外明るい気分でいました。その気分をバネに残業や徹夜続きの会社に飛び込んで2年。社会的な肩書きと目の前の仕事を手に入れ、自分の社会性や協調性のなさにようやく気がついたところでした。

 2年前の1998年10月。27歳の誕生日と前後し、学生時代から6年付き合っていたボーイフレンドとの破局と、かたちばかりに在籍していた小さなデザイン事務所の倒産が同時におとずれました、でもその1年前から身の回りには謎のトラブルが続いていて、不測の事態の総仕上げ感があったのです。古い映像などで途切れ途切れに漏れ聞いたことのある、別宇宙の言葉、日本古来の何かの呪文かと思っていた「テキレイキ」という言葉はやはり禍々しい何かだったのでしょうか。

 UちゃんやK子と文化祭で中古屋チェルシーを開催した1991年の翌年の冬、幼馴染の女友達から、その、6年越しで別れることになるボーイフレンドは紹介されました。チェルシーが終わってUちゃんとは以前ほど頻繁に動き回らなくなり、私はK子と都心のライブハウスを中心に無邪気に遊びまわっていたのですが、幼馴染が通う渋谷の専門学校に、私と趣味の合いそうな、昔の少女漫画から抜け出てきたような男の子がいると紹介されたのです。彼は少し前に、付き合っていた相手と別れて落ちこんでいるとのことで、似たような境遇にいた私との間を友人は取り持ってくれたのでした。

 初めて会った日の待ち合わせは井の頭線渋谷駅の改札でしたが、吉祥寺から乗ったガラガラの車両で斜め向かいの席に乗り合わせ、互いに気がついているのに話かけず、気まずい17分間を過ごしました。彼は金髪のマッシュルームでブライアン・ジョーンズのようだと聞いていたのですが、実際に会うとひょろひょろ痩せた長身で、視線恐怖症とのことで、やや挙動不審の終始うつむき気味。フェイクファーのロングコートにベルボトムを履いてはいたものの、昆虫を彷彿とさせる丸みのある大きなサングラスをかけたその姿は、まるで金髪のジョーイ・ラモーンでした。

 音楽や服や漫画の趣味が合い、場をなごますためよくおどける彼はギターを弾くのだと言っていて、昆虫のサングラスを外すと青白い端正な顔があらわれましたが、西欧の血が1/4ほど入っているそうで、本人はそれを少し気にしていたようです。彼は茅ヶ崎出身のUちゃんと地元が近く、親しみが湧いたと言ったら、思ったよりもアクティブでさっそく両親の車を借りて雨の降る真夜中に私の家までおしかけ、そのまま車に乗せられ江ノ島や鎌倉や横浜に連れ出されました。彼は女の子が群がってくるようなミュージシャンになりたがっていて、最近、バンドをひとつ終わらせてしまったので、次を早急に組んで20代のうちにチャンスを掴みたがっていたのですが、音楽好きではあるものの、成功しなければ意味がないとハッキリ言いすぎるところがあって、意見が食い違ったりもしました。

 付き合い始めは、やっぱり救世軍バザーに通い、一緒に衣類の山をひっくり返して過ごしました。彼の長い金髪マッシュルームに合わせる女物のブラウスや本物の毛皮のコートが必要だったので、それを惜しげもなくバサバサと買える救世軍は貴重な場所。でも私はマッシュルームカットと女物のブラウスの不機嫌そうなブライアンより、ゆるいウエーブ、くすんだ茶色の髪でヘラヘラと民族衣装を着ているミック・ジャガーが好きだったので、古い本の片隅のミックの写真を見せてはこっちのほうが良いと説き、彼の髪型は少しずつ変わっていきました。

 私はその頃、Uちゃんの影響で、自分の足にあったブーツカットのパンツを見よう見まねで作っていたのですが、それを知った彼に、ミック・ジャガーがハイド・パークで着ていた白いチュニックをライブ用に作って欲しいと頼まれ、国分寺駅前にあるパンチパーマ女性店員の布屋で、安くて白い厚手のガーゼを手に入れるとハイド・パークの写真とビデオとを交互に睨めっこして徹夜で仕上げたのです。

 それはヒラヒラが多めについた不恰好な割烹着で「本当に着るの?」と確認したのですが、彼は意気揚々とそれを新宿JAMでのライブで一度だけ着ました。なぜたった一度だけかというと、ハイド・パークの割烹着は洗濯した途端にシワシワとしぼみ、アチコチがほつれて破れ、衣類であることをやめてしまったからです。

 ライブと、シーズンオフの江ノ島などへ、ごくたまに行く以外、バイトの無い日は吉祥寺の彼の部屋で昼頃起き、ふらりと街へ出てユニオンやレコファンで中古CDとゲームを漁り、古本屋を物色、ついでにゲームセンターやパチンコ屋をうろうろし、よっぽど気が向いたら公園へ行ったりボーリングをしたり。金髪マッシュルームの彼は普段は襟元に金糸の刺繍のある、足首までの黒いカフタンドレスを着ていて、それによくサンダルを突っかけていました。

 彼の地元の友達が入れ替わりでやってきては、数日でも数週間でも、スーパーファミコン、プレステ、PCエンジン、サターン、64、とにかく部屋にこもってゲームをし、ジャンプとマガジンとサンデーの発売日で曜日を確認する。それ以外はギターを弾いていて、私はそれを横目にゴロゴロしているという毎日。そういう生活が私にはすごく性に合っていて、全く問題を感じませんでした。成功したいと言う割にかなり呑気な彼と全く何も考えていない私の関係が安定していくと同時に、古い音楽や映画に対する情熱もいくぶん落ち着き、服を買いに行くことも減った頃のことです。

 私はその日、救世軍で手に入れたまま部屋に転がっていた、ちょっとサイズの合わない黄色い花柄ブラウスと、裾がちょっと長くて持て余し気味の黄土色のベロアのブーツカットを履いていたのです。形はイマイチでしたが黄色い花柄と黄土色が上下で繋がっていればいいと思いました。当時は厚底ブーツが街中に溢れていて、私もできるだけ昔っぽい雰囲気の、適度にシンプルなレンガ色のを新品で手に入れ履いていたのですが、その日は救世軍で数年前300円で買った、太いヒールの茶色いワンストラップシューズ、しかも、誰かが履き込んでだいぶ歪んでくたびれているものにしました。よくUちゃんが言っていた、くすんだ金髪の女の子が全身同系色でまとめて自然の中でたたずんでいるイメージが頭に浮かんでいて、自分は金髪でも白人でもないけれど、髪の毛はくすんだ茶色に染めていたし、問題は全くないと思っていました。

 その日、わかったことがあります。私はいつの間にか、古着を着てさえいれば無敵になったような、いわば古着信仰の鎧を身に纏うようになっていたのです。しかしその無敵の鎧は、特に目新しくもないシンプルなアニエス・ベーのカーディガンとミニスカートにあっさりと打ち砕かれたのでした。

 彼と下北沢のライブハウスに入ると、別のバンドのメンバーと付き合っている、彼のかつてのガールフレンドが来ていたのです。彼女の全身「アニエス・ベー」な着こなしを見て、私は不思議な気持ちになりました。彼女は私より年下でしたが既に社会人、渋谷や原宿のアパレルブランドで販売員をしているそうで、小さな頭と細い首、華奢すぎるほどの体つきと青白い顔。彼がケイト・モスやヴァネッサ・パラディのファンなのも、わかる気がしました。真っ直ぐに切りそろえた黒髪、ワイン色のミニスカート、黒い靴下と革靴。暗いライブハウスの片隅のライトに照らされた、つんと尖った小さな鼻と猫のような目に見とれたのです。

 ふと我にかえり、自分の適当にハサミで切って染めたムラだらけの茶髪と垢抜けない体型、サイズの合わない薄汚れた古着、凶悪テロ事件を地下鉄でおこした宗教団体の信者を彷彿とさせる姿。彼女と私が並ぶと、彼女の背後からは後光が射しているようだと思い、いや私にも例の宗教団体的な後光が似合っている、と少し面白くなったけれど、やっぱり落ち着かない気分になりました。私はよくわからなくなって、いつも通りぼんやりしていましたが、自分が何を着たらいいのか、何をしたらいいのか、ずっと考えていなかったことに気がついて、慌てていたのです。

 しばらくして、彼が突然日常を変えました。20代前半で芽が出なければミュージシャンを諦めようと思っていたようで、ラブホテル掃除のバイトも辞め、都心の広告会社に就職したのです。ここ1年、私にも口酸っぱく漫画家を目指すよう言ってくれてはいて、今にして思えば、私より建設的な彼が私の卒業制作の絵と漫画を見て考えた、彼なりの助言だったのでしょう。言われるがまま、ごくたまに投稿の真似事をしていたものの、彼が就職を決めてからじわじわと迫ってくるワケのわからない寂しさに、私は持ち前の頭の悪さを発揮し、まずは彼の真似をして買った求人雑誌に載っていた、優しい女社長が1人で切り盛りしているという、正直全く興味のない広告デザインの仕事に応募してみました。さらに、まだ時間が余るので、彼がいない時間を誰かと会って潰そうと考えたのです。


 運命の1997年、暗雲に覆われた天にラッパが鳴り響くように幕は開きました。まずは、子供の頃から長年飼っていた実家の犬が死にました。そのあと、彼といる時間の少なさから、退屈しのぎで起こした行動が惨事を招き、周りを巻き込み、怪我、入院、思いのほか命に関わる事態で、大手術。無事生還、の盛り上がりついでに彼に結婚を申し込まれたものの、病人気分のまま浮かれているうちに、やっぱり破談、と同時に、腰掛け程度の気持ちで在籍させてもらっていた勤務先倒産の知らせ。など怒涛のような1年間で、私の身の回りはきれいに一掃されたのです。

 長い夢からさめたような気持ちで面接を受けたのは、表参道にあった、全く興味のないパソコンの広告デザインの会社でした。スタッフも多く、知らないことばかりで新鮮で、社会と繋がっていることで安心感が得られました。古着を着ている人も音楽の話ができそうな人も見当たらない灰色のパーテーション。作業をしていれば余計なことを考えずに済むし、そこにいけば自分専用のMacと机がある。相変わらず遅刻をしながら通っていたのです。

 ある日、またムクムクと何かが湧き上がる気配がしました。たいして興味のない仕事でも徹夜できるのなら、もっと好きなことに情熱を注げるかもしれない。その時思い浮かんだのは、あの91年の学園祭の夜。UちゃんやK子と数日間徹夜をして組み上げた巨大やぐら、中古屋チェルシーから見上げた暗い11月の夜空だったのです。

 相変わらず何をしたら良いかわからない私は、とりあえず振り出しに戻ってみようとK子に電話をかけてみたのです。今でも無事に生きていることには胸を撫で下ろしています。






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K子は飼い猫がブタの形の入れ物のなかでたくさん子猫を産んで幸せだった頃


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