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なぜ、「ぼぎわん」は消えたのかー映画「来る」についてー

※過去に書いた映画レビューを加筆修正しました。

傑作だ!
と、初見で思いレビューを見ると意外にも評価が低い。
低評価のいくつかには、原作ファンから「あのシーンがない」「あの設定が描かれてない」などの意見があった。
そんなに原作はいいのかと、さっそく読了し思ったことは、レビューとは真逆で、「中島哲也すごい!」である。
特にこの監督の大ファンでもなんでもなく、『告白』まではむしろ苦手な映画を撮る監督だと思っていたが、今回の『来る』は本当に文句のない傑作だ。
いろいろと書きたいことはあるが、長くなるので、一つだけ書こうと思う。

今回の映画は小説『ぼきわんが、来る』を原作にしている。
澤村伊智による初の長編小説で日本ホラー小説大賞を受賞し、高い評価を得ている。
原作を読むと、映画とほとんどストーリー進行は同じで、田原秀樹→田原香奈→野崎と語り手が変わるのも同じだ。
大きく原作と異なる点は、「ぼぎわん」の存在だ。
今回、タイトルから消えた「ぼぎわん」は、原作では序盤からこの事件に関わっていることがほとんど確定的だとされる怪異だ。

「ぼぎわん」とは何か。西洋からきたハロウィンのブギーマンが訛ってそう呼ばれるようにったのではないか?など、オカルトライターの野崎を中心にその謎ときがなされるのが原作の大きな特徴で、後半の野崎視点で語られる第3章では、主にこの点が主眼となる。
この謎ときは、小説で読む分には、知的好奇心も満たすことができ楽しいが、映像にするには全く地味になる。

そこで、今回の映画は、完全にこの「ぼぎわん」を捨てたのだ。
「ぼぎわん」の謎にせまるのはやめて、得体のしれない「何か」に襲われる恐怖を描くことに全力を注いだ。
結果として、得体の知れない「何か」は得体の知れないまま、映画は終わる。
しかし、原作と映画、どちらに恐怖感が残ったのかといえば、断然に映画となる。

原作で得体の知れない「ぼぎわん」がその姿を現し、その由来などが徐々に判明する毎に、怪異の恐怖は薄まっていく。
得体の知れない「何か」に襲われる恐怖が失われていったからだ。(得体が知れている怪異はあまり怖くない)
だからこそ、映画版では、「ぼぎわん」という存在そのものを、得体の知れない悪意そのものとして描いたのだろう。
人の心の弱さに取り憑く化け物。
しかも、それは圧倒的な悪意と力を持っている。小説では、野崎と霊能者の琴子のみが、化け物と対峙するが、映画版では、一大スケールの大除霊大立ち回りだ。
何人もの霊能者を巻き込んでの除霊ライブのクライマックスは映画ならではの圧巻の映像である。
この原作を映画にするにあたっての取捨選択と継ぎ足した部分の素晴らしさには脱帽させられる。(田原秀樹がいかによくいる調子のいい社交的な男か、田原香奈の人間的弱さ、唐草の悪意などなど)

原作を読めばわかるが、よくここまで広げて閉じたな!と中島哲也の手腕を褒めざるを得ないはずだ。
この映画は、「ぼぎわん」という原作の中心的存在を捨てて、映画としての「恐怖」と人間の底知れない怖さを描くことに全力を尽くしたのだ。
結局長くなったが、個人的に今年最も面白かった映画なので、ぜひ観てほしい。