南日本新聞コラム南点第8回「命を糧とし命を繋ぐ」

 子供の頃、祖母の家でご飯を食べる時、「いただきます」と手を合わせると、祖母はいつも、「はいおあがり(召しあがれ)」と言った。それは、祖母がご飯を作ってくれた時だけでなく、母や、自分でラーメンを作った時もそうだった。自分の作ったご飯に対し「いただきます」と言ったのに、ただテレビを観ていただけの祖母から「はいおあがり」と言われると、なんとなく釈然としない気持ちになった。

 子供の頃は「いただきます」というのは、作ってくれた人に対して言うものだと思っていた。作ってくれた人の労力に対しての感謝の言葉であると。なのでそうでない人にその言葉を受け止められると妙にモヤモヤした。幼い私はそのモヤモヤを解消すべく、祖母の発言を正当なものとして受け入れられる理由をあれこれ考えてみた。ひとつは、そこが祖母の家であるから。ゆえにその家では祖母が神であり、すべての事象は祖母の掌で起こっていると考えられるから。もうひとつは、ご飯を作ったのは祖母ではないが、そのご飯を作った人を作ったのは祖母だから。母にしろ私にしろ、祖母の存在によってこの世に生誕したから。そう考える事でそのモヤモヤはある程度解消できたものの、やはり完全にはスッキリしなかった。

 ハタチ過ぎ。祖母が亡くなり数年が経った頃だった。千葉の実家で母の手料理を食べようと手を合わせた瞬間、私はふいに「いただきます」というのは、作ってくれた人に対するお礼と共に、食べ物になってくれた命に対する感謝の言葉なのではないかと思った。食べ物の前で、仏壇にするのと同じように手を合わせるのは、そういう事なのではないか。すると祖母の「はいおあがり」が腑に落ちた。それは、命を糧とし命を繋ぐ者への、先達からのエールだった。私は目覚めた思いで、その命を有難く頂戴した。いずれ訪れる、その時に思いを馳せながら。

 それから25年。私は未だ命を繋いだ事が無い。その予定も無い。申し訳ない。


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