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〔ショートストーリー〕書きたくない男

「書く時間が無かった、ごめん」
男はしゃあしゃあと言うと、渡しておいた用紙をガサガサと取り出した。
「そう。忙しかったんだ。じゃあ、今ここで書いてくれる?」
私は苛立ちを抑え、二人分のアイスコーヒーとサンドイッチを脇に寄せ、出来るだけ穏やかに言う。怒りにまかせてことを急げば失敗すると、これまでの経験から学んでいる。
「え?こんなプライベートなものをこんな喫茶店では…」
「そうよね。私もそう思う。だからこの間、あの場ですぐ書いて欲しかったんだけど、『ひとりになって書きたい』って言うから…そんなに書くのが嫌なの?」
溜息と共に、憂いを含んだ声で言ってみる。冷静になれ。私は自分に言い聞かせていた。この紙は幸福へのチケットだ。何としても手に入れなければ。
「い、いや、そういう訳じゃない。ただ、ほら、まだ早いかと…」
「え?私、もう30才越えたよ?」
「そ、それはそうなんだが…」
ああ、もうそろそろ私も限界だ。段々と声が尖ってくる。
「やっぱり、名前を書くのがそんなに嫌なんだ。もういい。他の人に書いてもらうから」
「え!?それはだめだ!」
「じゃあ、今書いてよ」
「それはまだ、心の準備が…」
私の中で、何かがプツッと切れた。
「グダグダ言わずに、サッサと書いてよ!お父さん!」
私はとうとう、テーブルをバンッと叩いてしまった。アイスコーヒーが氷ごと、グラスの中で揺れる。目の前の婚姻届の空白部分、証人欄を指さして捲したてる。
「向こうのお義父さんは、すぐ書いてくれたの!こっちはお母さんでも良かったけど、お父さんの顔を立てようと思ったのに」
「い、いや、だから…」
「何なのよ。いつまでも言い訳ばっかりして!この間も休みを潰して二人でお願いに行ったのに、結局書いてくれなかったじゃない!今日だって、昼休みに会社を抜けてきているのに。お父さんがそうやってごねると、私が恥ずかしい思いをするの。ねえ、分かってる?!」
大声で言ってから気付く。あ、やってしまった。父は涙目で私を見ている。周りの客の視線が痛い。中には会社の人間もいるだろうか。私は誰とも目を合わせないよう、目の前のテーブルを睨みつける。
お・ち・つ・け・私!いささか手遅れな気はするが、もう一度自分に言い聞かせ、深呼吸をひとつ。
「あのね、お父さん。お父さんが私を大事に思ってくれているのは分かるけど…」
「いや、悪かった」
父は涙目のまま、頭を下げる。
「悪あがき、し過ぎだな」
まあ…確かにそうだ。この婚姻届は3枚目なのだから。1枚目は本籍を偽って書いた。2枚目は生年月日。どちらも私が気が付くようなミスを、わざとやってきた。その度に、私も彼も、彼のお父さんも、新しい用紙に同じことを書くハメになった。母は頭を抱えるし、恥ずかしいったらありゃしない。全く、子どもみたいだ。
「今度こそちゃんと書く。だから、1つだけ忘れないでくれ」
「え?何?」
「こんな子供じみた邪魔をしておいて、今さら言うのも何だが…」
「だから何よ」
「一番大事なのは、お前自身の幸せだ。他の誰でもなく、お前が幸せになれるように生きるんだ。それだけは忘れないでくれ」
そう言うと、父はサラサラと証人欄に記入する。今度は何も間違えていなかった。
「約束だぞ」
父はスッキリした顔で、書き終えた用紙を手渡してくれた。
「…うん…」
ダメだ、急に視界がぼやけそうだ。ズルいよ、お父さん。
「ほら、早く食わないと時間がないぞ」
全く、誰のせいだと思っているんだか。苦笑いしながら、二人で急いでサンドイッチとコーヒーを平らげ、バタバタと店を出る。
「じゃあな」
「うん。お母さんにも、よろしくね」
喫茶店の前で軽く手を上げ、駅に向かう父。これから2時間、電車に揺られて帰るのだろう。いつの間にか少し小さくなった父の背中が、段々と遠ざかって行く。
「…ありがとう」
私は呟き、その背中が見えなくなるまで、小さく手を振り続けていた。

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