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荻窪随想録18・善福寺川の源泉とされる小さな滝を訪ねて

下流のほうまで歩いていくことはできたけど、なんだか私はもう自分の足には自信を持てなくなってしまった。途中で足をひねりかけたし。

それで、川沿いに善福寺川の水源を目指すよりも、まずは手っ取り早く源泉があるという善福寺公園に行ってみることにした。
そうしたのは、実のところ、以前、図書館で見つけてもらってきてあった、フリーペーパーである「すぎなみ景観ある区マップ」をじっくり見て、丸山橋から先、川沿いの道をすべて歩き通せるわけではないことを先に知ってしまったからでもあった。

だったら、川沿いにどこまで行けるかを、なにも自分の足で確かめる必要もない。

そう思い、いったん、その源泉とされている、善福寺公園の中にあるという「遅野井の滝」というものがどのようなものかを先に見に行ってこようと思ったのだった。

善福寺公園には、自分はあまりなじみがない。公園の最寄の駅となる西荻に行くことが習慣としてほとんどなく、もし手近でいくばくかの自然に触れたくなったら、吉祥寺の井の頭公園まで行くのを常としてきたからだ。一番最近に行ったのでも、はや12年前、友だち連中に誘われてのお花見だった。その時には園内は花見客であふれ、ゆっくり中を見て回るようなことはしなかった。

西荻の駅から地図のとおりに歩いていって、ほんの15分ほどで善福寺公園に着いた。園内に二つある池のうちの、下の池のあるところだった。鳥を撮ろうとしているのか、池に向かってカメラを構えている男の人たちが何人かいたが、その池を見渡して私がすぐに気づいたことは、中ほどに、すすきのような穂のついた丈高い草がかたまって生えていることだった。これはもしや、かつては善福寺川の川べりにいくらでも生えていたという荻ではないか。そう思ったが、どこにもそのような説明を書いた立て札がなかったのでよくわからなかった。

この下の池は、後から人工的に造られたものだという。上の池自体も、元々あった池の3倍ほどの大きさになるように、昭和10年に人の手によって造り変えられたものだそうだ。それ以前は上の池は、田んぼに囲まれたもっと小さな池だった。

下の池を左手に見て公園内を歩んでいき、途中で出てきた右手の浅い水路は、かなり近年になって造ったものであるらしいことを案内版で読んで、あまり興味も持たずに通り過ぎ、公園を二つに分けている車道を横断歩道で横切って、上の池のあるほうまで行ってみた。

道を渡る前からボート乗り場があるのに気づいていたが、冬のせいか営業はしていないようだった。左手のクマザサの茂みの向こうの小高いところには、かつてここを公園として整備することに尽力したという内田秀五郎氏の銅像があったが、そちらにも足を向けず、とりあえず池の周りをぐるりと一周してみようと歩いていった。

そのうち、畔の近くに木が茂るままにまなったような小さな島が見えてきて、枝葉が入り組んで薄暗くなった中に、ゴイサギが一羽止まっているのが目に入った。頭から背に向かっては紺色で、頭の後ろから後方に向かって1本ぴんと立った毛が生えている。ゴイサギをじかに見たのも初めてならば、そんなに間近でもじっと動かずにいる鳥を見たこともなかったので驚いた。

その少し先にも、もう一つの小さな木の生い茂った島があり、そちらには市杵嶋神社の黒い祠が祀ってあって、開帳もしていなければ近づいて拝むための橋もなく、お参りするにはただこちら側で頭を下げて手を合わせるしかなくて、非常に厳かな雰囲気を感じた。

ちょうどその前あたりに、「遅野井の滝」があった。岩の合い間から幾筋かの水が流れ落ちている。高さは1メートルもなさそうだった。
これも人工的に造ったものだという。善福寺池や善福寺川、もしくはもっと広く取ってそれらを含む武蔵野台地などに関心を寄せている人ならよく知っていることなのだろうが、この善福寺池は昭和32年に湧き水が出なくなって干上がってしまった。その時に、苦肉の策として、近くの千川上水から地下に導管を通して上の池に水を引くことにした。その放水口として、岩から清水が湧き出ているかのように造ったものだということだ。

それでもその数年後には、その千川上水自体が涸渇してきてしまって、今度は昭和37年に下の池に深井戸を掘って、地下水をポンプで汲み上げて池に供給することにした。しかしそれでも足りず、次には41年に、上の池のほうに深さが120メートルもある深井戸を掘って水を汲み上げ、それを池の中ほどと遅野井の滝から流して補うことにした。さらには、平成に入ってから、下水を浄化したものを上流から混ぜることで、川の水量の足しにしているという。

今でも川のあちこちには、ささやかな湧き水が出ているところがいくつかは残っているらしいが、それらがいつ同じように涸れてしまうのかはわからず、もはやそのように込み入った人の手が入らなければ、川としての姿を保っていられないのが、今の善福寺川の現実ということなのだ。

まあ、そんなことはこの「遅野井の滝」を訪れた時には、私はまだよくわかっていなかった。単純に、川に沿ってどこまで歩いていけるか、というのがことの始めだったし。昭和32年にできたのであれば、私が子どもの頃からあったものだし、一度ぐらいは見に来たことがあってもよさそうなものなのに、まったく見覚えがなかったどころか、話に聞いたこともなかった。

それはやはり、自分は自分の生活範囲の中の善福寺川公園(現善福寺川緑地)で満足していて、ここに来ることがあまりなかったからだろうか。しかし本来こういった公園は、ふだんは地元の人たちだけが散策に来ればよく、たまにちょっと話を聞いて遠方から足を伸ばしてくる人がいる、といった程度のほうが、誰もがのんびりと自然を味わうことができていいと思う。

ともかくも源泉とされているものを目にしたので、その後はそのまま池の反対側のほうに回っていった。善福寺川緑地と同じように、子どものための広場があり、プランコやすべり台といった遊具がそろっていた。もちろん、ベンチは昨今の公園の決まりごとであるかのように、園内のあちこちにふんだんに置いてある。一周してボート乗り場のあったところまで戻ってくると、来たとおりに下の池のほうまでまた歩いていった。

下の池は、「ある区マップ」によると、夏にはびっしりと睡蓮で覆われるらしい。緑のまぶしい季節に来たら、まったく違った光景が眼前に広がるのだろうが、実のところ私は――できることなら――木々の葉の落ちた季節に、落ち葉を踏みしめながら公園を歩くほうが好きなのだ。

下の池の東の端に、コンクリートで固めた流出口が造ってあって、そこから流れ出る水で善福寺川とつながっていた。そのすぐ先、公園を出たところには美農山橋という橋がかかっていて、その橋の下に、高度処理をしたという下水が流れてくる大きな四角い口が――これは後でわかったことだが――川に向かってぽっかりと開いていた。その時には特に水は流れてきてはいなかったようで、開いた口に枯れ葉がたくさん吹き溜まっていた。

美農山橋の上から川下のほうを眺めると、人家の迫った歩道が中流と同じように川の両脇に続いていて、家も川も夕陽に染まって金色に輝いていた。それを見るとやはりうずうずしてきて、そのままどこまでも歩いていきたくなったけれど、すでに公園内を一回りした後で、この間のように途中で音を上げるといけないと思い、この日はそれだけでその場を後にした。


※善福寺池の歴史的な経緯については、多く『善福寺池・五十年の歩み』(社団法人 善福寺風致協会)によりました。
※寺田史朗氏の講演『ミズとミチから善福寺地区の歴史を考える』(令和6年2月17日/西荻地域区民センター/NPO法人善福寺水と緑の会主催)も大きな助けとなりました。

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