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萩尾望都の『一度きりの大泉の話』と、『世界の終わりにたった一人で』

本屋に行ったら『一度きりの大泉の話』が平積みになっていたんで、
ああ、これが最近一部で妙な具合に話題の……と思い、買って読んでみた。

萩尾望都のファンであることは自認している私だが、
エッセイなど、文章で著したものは必ずしも読むわけではない。
しかし、これには彼女と同じく、大家レベルのまんが作家である竹宮惠子が、
かつて萩尾望都に「なにかした」ということが書かれているらしかったので、
そこのところが引っかかって読んでみようという気になったのだった。

そうしたらのっけから、その時のことを、
「一切を忘れて考えないようにしてきました」
「考えると苦しいし、眠れず食べられず目が見えず、体調不良になるから」
などと書いていて、はなはだ穏やかではない。

そこまで言うほどのなにが、といぶかしく思いながらも、
70年代初頭の、二人が住んでいた大泉に集まってくるまんが家や、
まんが家志望の女性たちの楽しげな交流が書かれた前半を読んでいくと、
やがて中ほどで、その事件に突き当たる。

それはある時、かけがえのない友でありライバルでもあっただろう竹宮惠子に、
あろうことか自分のアイディアを盗んだのではないか、と疑いをかけられ、
さらに、今後は距離を置きたい、と書かれた手紙をもらって、以後、交友が断たれてしまったということだった。

なんだ、そういうこと、というのが正直な私の感想だった。
それは確かに自覚がなければ、言われたほうにとっては思いもよらぬことで、
つらく、苦しく、悲しく、そして悔しくてたまらない出来事であったことだろう。

しかし、そもそもお互いに熱意のある創作者どうしが同じ家に住み、
お互いのアイディアを常日頃語り合ったり、スケッチブックを見せ合ったりしていたのであれば、
盗ったの盗られたの、という問題が持ち上がりかねないことは最初から目に見えていたはず。

でも、まだ若かった二人は当時、そのようなことが起きるとは思いもつかなかったのらしい。
計算すれば、お互いにまだ23歳ぐらいの頃。
盗られたと思い込んだほうだって苦しんだだろう。
たとえ、双方とも命をかけた創作にかかわることであっても、
これだけの長い年月を経た後では、「青春の一コマ」と呼んでもいいような出来事ではないのだろうか。

と、まったくの第三者である私などは思うのだが、
ここでなにより、この出来事を不幸なものにしてしまったのは、
この著書を読めばわかるとおり、
萩尾望都が、両親に抑圧されて育ったために自己肯定感が低く、
ひとたび他人から拒絶されると、とことん思い詰めてしまうところがあったらしいことだ。
加えて自罰傾向がきわめて強かったようで、この一件のあった直後、
自分を否定するかのごとくに心因性の目の異常を起こし、
しばらくはまんがを描くのにさえ困難な時期を過ごしたという。

それはとても気の毒なこと、そしてほんとうにとても大変なことだっただろう。
そのため、今でも萩尾望都は傷つけられたという思いでいっぱいで、
この件を直視することができないのらしい。

そのとおり、この著作を読んでいると、やたら目につくのが「封印」という言葉と、封じ込めてしまいたい、という強い思いだ。

「思い出したくない」「忘れて封印しておきたい」「執筆が終わりましたら、もう一度この記憶は永久凍土に封じ込めるつもりです」
と、萩尾望都は本の中で綴る。

それを読んでいるうちに、私の中で結びついてしまう萩尾望都の作品があった。
それは、『世界の終わりにたった1人で』という2007年に発表したもので、
なかなか込み入った話ながらも、最後にはけっこうじんわりと心にしみるものがあるので、気に入っていて何度も読み返している作品だ。

物語をごくかいつまんで紹介するとこんなものだ。

大津ちづという91歳の老女性画家がいて、
たとえ世界の終わりの日に、一番会いたかった人にもう一度だけ会えるとしても、
もう誰にも会いたくない、と語る。
誰かにもう一度会いたいとか、帰ってきてほしいとかいった強い思いは、
すべて自分が描いた絵の中の、海の底に沈めたというのだ。

しかし、寿命を迎えたちづは、あの世への入り口である海辺で、ある男性に出会う。
それは、思いをかけながらも気持ちを打ち明けることのできなかった、
かつて自分の弟子でもあった年下の男性だった。

つまり、誰かを恋しいと思う気持ちはもういっさい持っていない、と口では言っていても、
封印した思いは何十年経っても心の底に生きていて、最後の最後に現れ出る、ということだ。

若かった娘時代のような姿に戻ったちづは、波の打ち寄せる浜辺で、最後にその男性と情熱的なタンゴを踊る。
ここは、見開きで描かれたこの作品のクライマックスシーンで、
ちづの願いは最後にそのようにしてかなったかに見えるが、暗い海を前にして人間の寂しさや孤独も感じさせられる場面だ。

奇しくも、ちづがこの男性に恋した時が、中年に差しかかったばかりの40歳。
亡くなって、あの世との境目である海辺に立ったのが、そのほぼ50年後である91歳の時。
作者である萩尾望都が、過去に親友と断絶することになったのは23歳の時。
そして、やむなく封印を解いて、その時の思いをさらけ出したのが、同じくほぼ50年後の71歳である現在。

同じ50年ほどの月日を経て、
半世紀に渡る封印を解く物語を描いた作者が、自分の心の封印を解いたというわけだが、
その解いた中身が、かつてある物語に描いたような秘めた恋心とは違って、
旧友への恨みとも呼べそうな感情であったことは、一ファンであり、一読者の自分としては残念なことだった。

ただ、この著作に対しては、萩尾望都への同情論も、多々見受けられる。
それだけ傷ついたのだし、一度傷ついたら、そう簡単には傷は癒せやしないのだ、と。

でも、たとえそうだとしても、
いつまでも傷つけられたという過去にこだわって、
相手に対して心を閉ざし続けていることが、果たして幸せと呼べるだろうか。

ちなみに、『世界の終わりにたった1人で』の中のちづは、
その恋した男性に裏切られたような思いも、内心では抱えていたはずだった。
しかし、そのような思いを飲み込んで、その男性と結婚した女性のことも、その子供のことも、黙って受け入れてきた。
そしてその男性自身がどのような気持ちであったかも、
最後には読者にそれとなく察せられるような形で話が締めくくられる。
読者は少しだけほっとして、切ないながらも暖かな気持ちで、その物語を読み終えることができるのだ。

しかし、『一度きりの大泉の話』はそういったものではない。
読者を後味の悪い気持ちにさせたまま取り残してしまう。

フィクションではないのだからしかたがない、と人は言うかもしれないが、
あのように細やかで複雑な心理を描写することのできる作者が、
自分のことだけにはこんなに頑なで、わだかまりを解消できないままでいるとは、と思わないではいられなかった。

※文中敬称略。

『世界の終わりにたった1人で』<月刊Flowers>2007年10・11月号掲載。
 フラワーズコミックス『スフィンクス』(シリーズここではない★どこか 2)所収。

掲載日の情報は、そのフラワーズコミックスによる。

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