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荻窪随想録21・元は田んぼの荻窪団地――西田町1丁目571――

自分は幼稚園に入った後のことは、入園式の日のことから始まって、割とはっきりと覚えているほうだと思うが、
かといって、小学校の入学式の時のこととなると覚えていることがない。自分にとってはそれほど変わったことはなかった日だったのだろうか。
でも、この随想録を書いているうちにだんだんわかってきたのだけれど、幼い日のことでよく覚えていることというのは、たいてい大泣きした日か、食べものにからんでいることがあった日なのだった。

つまり、幼稚園の入園式の日はその片ほうの、大泣きをした日だったわけなのだが、
その日についてはいつか書くことがあるかもしれないし、特に書かないで終わるかもしれない。

そんなわけで、自分が幼稚園に入る前、あるいは入ったばかりの頃には、荻窪団地の周り――西田町1丁目――にはまだ若干田んぼがあった。
という記憶も、実はあいまいで、うそかほんとかわからないものだった。

試しに自分が幼稚園に入った頃であろう昭和38年の地図を図書館で見てみると、善福寺川のほかに、用水路らしきものがまだ何本か団地の周りに描いてあったので、
その横にわずかばかりの田んぼが残っていたのかもしれないけれど、そのあたりにあったのは水田というよりも草むらとか空き地だったような気もするし、地図を見たところでなにも明らかになるものはなかった。

ただ私には小さな頃にザリガニを見たかさわったかした記憶があって、
それを、そういった用水路か田んぼで釣ったのか、と考えたのだが、
じゃあ、どうやってザリガニを釣ったのか――それとも、つかんだ、だろうか――というと、具体的なことがまったく思い出せない。
相当に小さかった頃のことだと思うので、誰か兄をも含めた近所の男の子たちが釣りに行くのについていって見ていただけなのだろうか。
しかし、兄にそうだったのかと聞いてみると、兄はザリガニを釣った覚えはないと言って、どこかから手に入れたことならあるかのような口ぶりだったので、もしかするとそれはまた別のある人――幼い頃にいっしょに遊んでもらっていたことのある四つ年上の人――の言うとおり、バケツの中のザリガニだったのかもしれない。

その人が団地の周りではないよそで獲ってきて、みんなに分けてくれたというザリガニ――そのザリガニに私は、バケツの中で初めて出会ったのだろうか。そして、小さいながらも、硬い甲羅を指でつまんで持ち上げてみたことでもあったのだろうか。

すべては、薄ぼんやりとした記憶の彼方だ。

でも、私個人の記憶にかかわらず、もう少し土地の記憶を遡ってみれば、それはもちろん、団地のあったあたりには田んぼがあったのだ。というよりも、荻窪団地自体が、元は一面田んぼだったところに建てられたものなのだ。

団地の周りには、昔は田んぼがあったような気がする、というおぼろな記憶を抱えながらも、
団地が建つ前には、そのあたりが全部田んぼだった、ということには、実は私はこの随想録を書き始めるまでは思いもよらずにいた。

思いもよらずにいたのにはちゃんとわけがある。
小さな頃によく団地で穴掘りをすると、硬く締まった黒茶色の土を数10センチ――実際に何センチだったかはちょっとわからないけれど――も掘ると、必ず灰色の粘土質のものが混じってきて、それ以上はうまく掘り進めなくなってしまう。それを私は、「関東ローム層だから」と誰かに教わったのだった。

ここは火山灰が降り積もってできた関東平野なわけだから、粘土のような灰色のものはその灰だ、と。
でも、団地を建てたのが田んぼを埋め立てた土地の上ならば、そんなきれいな地層になっているはずがない。

やはり図書館で、米軍が撮ったという昭和22、3年頃の西田町1丁目の航空写真を見てみたら、確かにいずれ荻窪団地となるところは、一帯すべてが広々とした田んぼだった。

知らなかった。だとすると、掘ると必ず出てくる、あの灰色の粘土はほんとうになんだったのだろうか。元は田んぼだったので、下から水が滲み出てこないように、浸みにくい土を表面の土との間にはさみでもしたのだろうか。今となってはまったくわからない。

すると私は、川沿いの荻が失われたことを惜しみながらも、自分自身がその荻窪の景観を破壊した上で成り立った環境で育ったのか、という気がしないでもなかったが、小学校の同窓会で出会った私より八つ年上の林さんという人は、荻窪団地を建設していた時のことを覚えている、と記憶をたどりながら語ってくれたし、それよりもさらに十年上の吉田さんは、そのあたりが全部田んぼだった時のことを覚えている、と楽しそうに語ってくれた。まだきれいだった善福寺川に入って遊んだとも。

私より年輩の人たちがそのように、子どもの時に見たものや体験したことをただ懐かしむように、ありのままに語ってくれると、私にもまるで、自分で青々とした田んぼが眼前に広がっている光景を見たことがあるような気になってくるし、自分自身もなんだかその時からずっと生きてきたような気もするのだった。

自分の生まれ育った土地に対するほかの人の記憶をも吸収して、それを自分のものとしていくような感じ。
それがよけいに、自分の生まれ育った土地への思いを深めてくれるし、ほかの人が語ってくれる、自分が知りようもない時代の荻窪の話を聞くのも、私には楽しくてたまらないのだった。

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