「正しいこと」とエゴについて

スピリチュアルなことをテキトーに、現実の効果第一に、オモテの世界では極力バレないようにひっそりとやっている私なので、悟りとか、エゴをなくすとかそういうことには興味がなかった。一般社会の中で聖者みたいに存在している人たちには何人か出会ったし、そういう人をとても尊敬しているけど、わざわざ私自身がヒマラヤの奥地へ修行に行きたいとか、覚者になることを目指したいと思ったことはなく、スピリチュアルに対してはとにかく「今よりもっと楽になるための新たな視点」的なことしか求めていなかった。

でもその「今よりもっと楽になるための新たな視点を得ること」をやり進めてきたら、今更、本当にいまさらすぎだけど、自分のエゴの部分とそうじゃない部分というのが少しわかってきたような気がしている。

そして、いわゆる一般的に「正しいとされる行い」って確かに方向性としては間違ってないんだなと、成人して20年近く経ってようやく本当に思えるようになった。

正しいとされる行いとは、「勤勉に仕事をする」とか、「適度な運動」とか、「身の周りの整理整頓と清潔」とか、そういう類のことだ。私は若い頃は反抗心の塊だったので、誰かが押し付けてくる正しさ全般を疑っていたし、特にそういう押し付けが甚だしい金八先生とかジャージ教師的な人間を心底憎んでいた。

ただ、私が言いたいのは、これらの行いを善き生き方としてストイックに実践すべしという意味ではない。

そうじゃなくて、「自分に無理強いせずに自然に前向きに」勤勉さや運動や掃除をできている状態こそが目指すべき理想の状態なのだと、実感としてわかった気がしているのだ。

そして、今現在その理想の状態になっていない場合、肉体・精神ともにどこかしら不調である可能性が高く、ちゃんと自分をメンテナンスした方が良いし、理想の状態でない自分を責めたり無理やり行動しても意味がないと強く思っている。

もちろん、目標達成のためにある程度自分を追い込んで実践するのはアリだけど、それも、精神的に健全でいられる範囲内でのことだと思う。目標達成という結果よりも、日々健全に生きていけてる状態の方がずっと大切だし、目指す価値のあるものだと感じる。綺麗事じゃなく、本気でそう思えるし、実際のところ、それを目指す方が逆説的に弱肉強食競争社会で強く生きていけるような気もしている。

それは、「結果よりも過程が大事だ」という単純なセオリーではなくて、「本当に必要な結果は本当に必要な過程からしか生まれない」という感じに近い。

仕事が辛くて心身に不調をきたしているのに我慢して勤勉にしている人なんて別に偉くもなんともないし、適度に運動をして心身ともに健康を保つのだって、掃除や整理整頓だって、自発的に自分が気持ちいいと感じられる状態でできてこそ意味があると思う。

婚活とか人間関係なんかも、無理してやって良い結果になったことはない。でも、だからといって努力を放棄して終了!では現実は動かない。無理せず自然に辛くない状態で前向きな行動を続けるにはどうしたらいいか考えたり、誰かに相談してみたり、道具の手を借りるなど、そのための努力は続けた方がいいと思う。

ジャージ教師はそういうことをちゃんと教えてくれなかったし、運よくたまたま表面上の勤勉さや体力を誇示できる資質に恵まれた人を褒め、できない人を努力が足りないと責めていただけなので、今でも嫌いである。

話がそれてしまったが、スピリチュアルは、そういう「正しい」活動が自然に自発的にできる状態を妨げている心理的ブロックに気づき、取り除くのに有効な部分があるのだと思っている。

心理的ブロックがあると、エゴに自分の意識の主導権を握ってしまわれやすくなり、楽に自然に健全な状態でいることが難しくなる。

エゴは、自分の仕事や体や環境を大切にしたいという気持ちを保てる明晰さを台無しにする形でやってくる。どうせ自分なんてという自己否定や恐れとか、意味のない嫉妬や詮索とか、とにかく衝動的に甘いものを欲するとか、無気力や投げやりとかそういう形でだ。

気づいた時にはもう乗っ取られてるし、乗っ取られていたという認識はそこを抜けた時にしか訪れない。乗っ取られて、抜けての繰り返しだ。心理的なブロックや無駄な思い込みがあればあるほど、ちょっとしたきっかけで自動的にエゴが発動してしまう気がする。

派手でポップな感じのスピや自己啓発は「我慢を今すぐやめて好きなことだけしよう!」と言って、キラキラしたイベントや商品に誘っているけど、長らく自分を抑圧してきた状態から、エゴに左右されない本当の「好き」を感知するのはとても難しい。しかも、それがいきなり天職になって、すぐに十分にお金が稼げるというのはかなり飛躍があると思う。

「正しい行い」を押し付けるジャージ教師も、「好きに生きよう!」のキラキラも、なんとなく根底に同じ種類の雑さがあるような気がしてならないのだ。

自分を知っていくプロセスは、何層にも重なっている「自分自身だと思い込んでいたもの」を一つ一つ精査し峻別しながら核心に近づいていくものなんじゃないかと思っている。

今までの抑圧の反動で衝動的に散財して享楽的なことをするとか、そういうのを私もたくさんした時期があった。本当に好きなことを、やりたいことをしようと何年も思ってきて、その都度最善を選んできたつもりでいたはずなのに、いつもどこかで誰かの目を気にする浮ついたエゴが選んだ行動が混じっていたし、それは今もそうなんだと思う。

ようやく、少しずつエゴじゃない自分を自覚して、なるべくそれを保とうと思えるようになってきたところだ。

私の尊敬する先達たちや、優しくて敏感な仲間たちは、私のエゴまみれの姿をずっと生暖かく見守ってくれていたんだなと思うと恥ずかしくて倒れそうになるけど、今日より明日の自分が少しでもマシになっていくようにやっていくしかないなと思っている。

それに、周りの人たちも、きっと人知れずその人特有の苦しさや浅はかさと向き合ったり逃げたりしながらやっているんだろう。

そんな当たり前の事実を、やっとフラットに受け入れ始めたのかもしれない。





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