片田舎の古びた古本屋が佇んでいてくれたことの意味

30年前、世の中はゆるかったと思う。
高校受験を控え、ベッドタウンというにも憚られる片田舎に住んでいた私は、同じ町にある塾に通うことになった。

勉強も楽しかったが、それに付随して思い出す古本屋がある。人に話すほどのことでもない、些細な思い出。

塾が終わるのは午後9時過ぎだったかと思う。コンビニもない時代、商店街の店は閉まり真っ暗な上、人通りはほとんどない。その商店街を抜け、住宅街を抜け、さらに畑を横目に見ながら30分かけて歩いて帰っていた。

本好きだった私は、同じく本好きの友人と共に帰路にある古本屋に寄るのが習慣だった。その古本屋は夜11時まで開いていたが、今思えば人のいない町でよくもあんなに遅くまで店を開けていたものだと思う。

私たちは塾帰り、たいていそこに入っていま。ただ本棚を眺めるだけの日もあれば、お小遣いを懐に忍ばせて以前から狙っていた本を買うこともあった。背表紙を眺めることに夢中になって、閉店ですと言われたときにいたく驚いたのを覚えている。閉まらない店だと思っていたのかもしれない。

古本が破格で売られていたのは時代だろうか。そこでさまざまな本に出会った。ブラッドベリを見つけて心躍らせたのも、ディックに出会ったのも、ルブランを買い揃えたのも、新井素子や田辺聖子をどれ読んでみようかと手に取ったのも、その古本屋だった。

当時はインターネットもなく、本の情報はアナログで手に入れていた。教科書や試験問題で気に入った文章の出典や好きな作家がルーツだと言った本を鉛筆でメモしていたが、膨れ上がってしまいメモと言うにはいささか嵩ばるサイズだった記憶がある。

本屋のカウンターにいたのは愛想のない、おじさんとおじいさんの間くらいの年頃の男性で、深夜に長居して本を物色している中学生たちを注意するでもなければ、本仲間として声をかけてくることもなかった。

今思うと、あの古本屋がつないでくれた縁は深い。本との縁もあるし、友人との縁もある。
いつも一緒に行っていた友人とは当時も飽きることなく本の話をし、大人になってからも会うとほっとする存在だ。その下地に、古本屋で共に過ごした時間があったからかもしれない。
お金のない当時、所有していた本はたいていそこから買ったものだった。狭い店内にあれだけ読みたい本があったのだから、いい選書だったのかもしれない。私の本への想いを消さずに済んだのはその古本屋のおかげもあるだろう。

古本屋の店主は、別に子供たちの人生に影響を及ぼそうと思っていたわけでもないだろう。道楽か節税か、その程度の店。その気負いのなさが余計に心地よかったのだと思う。あんがい、道楽ついでに深夜に出入りする女子中学生たちを見守ってくれていたのでは、と思うのは美談にしすぎだろうか。

だけど結果として30年たった今でも、私の記憶に残っているし、その古本屋が与えてくれたものについて想いを馳せたりしている。

私もそんな風に、好きなことを好きな分だけ淡々とこなしながら生き、袖触れ合う人たちが都合よく影響されていくような境地にいきたいものだ。

旗を立てて人を導くことを是とする考えや、良い影響を与えることこそ価値だという呪縛が自分にまとわりついているけれど、私の本当の理想はあの古本屋なのかもしれない。



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