【創作】バスを降りた彼女

「そんなんだから日本がダメになるっっ!!」
おばさんの金切り声が、夕刻の満員のバスの中に響いた。

目をやると、優先席の前で立っている中年の女の声のようだ。その横には、年配のおばあさんがしゃんとした姿勢で立っている。
優先先に座っていた若い女の人がか細い声で「すみません…すみません…気づかなかったので…」と言って立ち上がると、中年女は誇らしげな顔でおばあさんに空いた席を促した。

席を立った女の人は、大学生か社会人なりたてか判別できないくらいの年齢に見える。隙間なく人が立っている車内で、少しでも中年女性から離れようと身を小さくして人と人の隙間に入り込んでいく。

僕はその俯いた女の人の長い髪の隙間から見える顔が、やけに白いのが気にかかった。もしかして具合が悪いから優先席に座っていたんじゃないか。そう思って目をやると、人の隙間から手を伸ばして金属の手すりを掴み、今にも崩れ落ちそうな体を必死で支えているようにも見える。譲ってもらったおばあさんの方がよほど元気じゃないか。

声をかけようか。
大丈夫ですか?顔色悪いですよ。体調が悪いのではないですか?

そう言いたくなったのは、あの正義感を振りかざし勝ち誇った顔の女に恥をかかせてやりたい気持ちが何割か含まれていただろう。

しかし、ためらっている間に次の停留所につき、彼女は足早に降りていった。
降り側に、中年女がことさら誇らしげに「頑張ってね」と声をかけていた。いったい何を頑張ってなのか。厳しい言葉を投げつけた罪悪感を解消するためか。

言い返せ!と願ったが、彼女は終始下を向いたまま無言で去っていった

彼女ひとりを降ろしドアが閉まったバスは、また静かに発進した。ひといきれで湿った空気の車内は、しんと静まり返っている。

僕は曇った窓ガラスを見ながら考える。彼女は本当にそのバス停で降りる予定だったのだろうか。もしかしたら、そのあと具合の悪い体を引きずっていくつものバス停の分を歩いて帰るつもりなのかもしれない。
弱っているときにあんな言われようをしたら、次のバスに乗る気にはとてもなれないだろう。

僕にはまだ、知らないことがたくさんだ。
僕の想像も及ばない「見えない事情」がこの世に山ほどあるだろう。

人は、相手の事情を知ろうともせずに傷つける。ときには名前も知らない見ず知らずの人に、深く深く、何年も消えない傷を植え付けることさえある。

僕だって、あのおばさんと同じか。
彼女の様子がおかしいことに気づきながら、知らないフリして見送った。

「あの人、大丈夫かな…」
ドアのそばの2人がけの席に座っている女子高生が、隣にいる友人に向かって小さく呟いた。
「なんで?」
「なんか具合悪そうだったじゃん?」

気づいたのは僕だけじゃなかった。
バスを降りていった彼女に伝えたい。君の味方が少なくとも2人いたよ、あのバスの中に。声をかけられなくてごめんね。

どうかあの女性が、この先の人生で理不尽な正義感に傷つけられることがありませんように。
そんなことを祈るのは偽善かもしれない。でも、今日は祈る。

ただ見ていただけの後味の悪さとよく似ている薄暗いバスの中で祈った。それから、声をかけられない自分ではいたくないとも思った。漠然とだけれど。

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