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好人和壞人

※1.和訳:良い人と悪い人
「悪い」と言う意味を示す中国語は「壊れた」です。
※2.トプ画はブダペストのanonymous statue です。なんか好きです。

これまでの人生、まだ23年と半年しか経験していないけれど、色んな人に出会った。出会わなければならなかった。

良い人、悪い人、、

大概、「悪い人」の心には悩みや困難があることがわかった。

ひどく傷ついた経験があるから人に批判されることが怖い、挫折経験が少ないからプライドが高い、裏切られたことがあるから人を信じられない、、

「良い人」も、ひどく傷ついたり挫折したりした経験がないから「良い人」でいられたり。そういうことを知らないから、「良い人」でいられたり、、

「良い人」の心が「悪い」部分に蝕まれていったり、「悪い人」の心に「良い」部分が満ちていったり、、

私は性善説も性悪説も唱えない。どちらでもなく、ただ皆「人間」であり、ただ葦と言うだけで。

、、では、どうやって善悪を判断すれば良いのだろうか。

私は
「多かれ少なかれ皆持っている余裕の中でどれだけ頑張ったか」×「苦労」×「外部要因」
だと思う。

最近、酷いことをされても理由がわかると人に対する怒りが生じなくなってきた。

少し前までは、怒りを制御していた感覚はあったのだが、、

「怒れない」のか、「悟った」のか、正直なところわからない。

壊れているのはどっちでしょうね。

追記(長め)
せめて西田幾太郎の『善の研究』くらい読んでから書こうと思っていたのですが。
文献を読まない状態で自由に書いても面白いかなあと思い。

私は幼い頃から良くも悪くも集団において目立つ存在でした。
ちなみに先生方からは褒められた経験より叱られた経験の方が圧倒的に多いです。皆の前でテストを破られて折檻されたり、教壇に立たされて怒鳴られたり、、、全部精一杯やった結果なんですが、、(全部2000年代の話なんですが笑)

それもあってか、私に対して「良い人」が「悪い人」に転じることやその逆も然り、とてもとても多くて。おそらく主観だけではないですよ。

例えば容姿に関して。

今は褒めていただくことが多いですし、高校生の頃は校内でも「有名人」と言われていました。隣のクラスから男の子たちが見に来ていました。嫌な話、囲まれて卑猥な話をされたことも多々ありました。
バイオリンや雰囲気などが相まって、「おとなしいお嬢様」と思われたんでしょうね、、

ただ。
小学校高学年の頃はぽっちゃり体系の顔面ニキビだらけ、メガネをかけていて目が細く、出っ歯ですきっ歯、学校でも塾でもブスやらデブやら言われていました。
洋服を買おうにも店員さんに服を摘んで渡される始末。

悔しくて見返すために、ダイエットや所作の研究に励み、容姿や雰囲気、「見た目」に分類されるところ全てをできる限り変えました。

その結果。
小学生の頃、バカにしてきた同級生たちには同一人物と気づかれず、ある人には「可愛い人いる」と私を指して言われました。180度真逆の態度を取られたんです。

今、褒めてくれる人たちは、小学生の頃に会っていたら私を貶したんだろうか。

、、と、当時は悩み、苦しみました。

ちなみに褒められるのはもちろんとても嬉しいですが、中学、高校時代は対人恐怖症だったため、人の目線が怖く、本当に生きにくかったです。自分が挙動不審なのもわかっていましたし。

いや、そうとも限らない。

、、そんなこんなを経て、今は「良い人」「悪い人」なんていうのはおらず、人間の心がうつろいやすいだけなんだろうな、と思っています。

人間は弱い葦だから。

そうやって、自分を見つめ、相手を見つめ、倒れないように生きて行くしかないんだなぁ、と思う今日この頃。

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