改めて「ジョージの原理」に戻る

 ねこっちです。最近、精神的不安定になる中で、以前封印することに成功していた「天才至上主義」が復活し、勉学が困難になってしまっていました。


天才至上主義とは?

 天才至上主義とは、

・学問は一人の天才がいればいい。凡人は足を引っ張る。
・天才でない人(凡人)には楽しむ価値がない。

というような思考を主体とした魔物のような考え方で、私はこれのせいで今まで学問ができずにいました。何をやっても、「自分がこれを思いつくにはどうすればよい?」「これを考え出した天才の動機は?」と言ったようなことが気になってしまい、純粋にその知識を学ぶことはできずにいました。

 また、自分が本気で学ぶこともできずにいました。というのも、自分がここで本気を出すと、自分の身の丈(才能)はその程度だったのだ、ということを決定づけてしまうような感じがしたからです。だからいつも本気になることから逃げていました。

 だから自分は高校3年のころ(2017年)を最後に、大きく自己変革できずにいました。

 この天才至上主義が更なる高みを目指す自分にとっての癌であることを自覚してはいたものの(2019年~)、それをどう治せばよいかわからずにいました。この「癌」を患った自分を消したいという努力(自傷行為、暴力、暴言など)はしてきたものの、「癌」そのものを消すための努力はできていませんでした。

なぜこんな癌が増殖したのか

 この「天才至上主義」という癌の増殖をここまで許してしまったのは、ひとえに自分のせいでした。

 私は友人もほとんどなく、テレビやカラオケも嫌いで、芸能人も興味がなく、ブランド品や飲酒、高級車も嫌い。とにかく、普通の人と趣向が合わず、私はいつも孤独でした。

 そうかといってそれらに興味を持とうとすると、何か嫌な感じがいつもしており、私はそうしたものを遠ざけていました。

 天才至上主義の増殖を許してしまった理由の一つは、私は他者と交われないため、そのような自分にはせめて「天才性」がないと生きていけない、と思ったことにありました。

 一方、私は木々や緑、青い空、さえずる鳥や活動する虫たちのような、自然はとても好きなのです。できればそうした穏やかで感情のない世界で、自分のペースで生きていきたい、と子どものころから思っていたのでした。

 天才至上主義を患った理由の2つ目は、こうしたマイペースで穏やかな世界に、自分のペースでいられるのが「天才」だという考え方によります。

 つまり、私にとって天才とは単に「並外れた知能」をもっているだけでなく、

・他者の追随を許さない存在
・自分のペースを保てる存在

という意味があったのです。

 考えられるのは、私のこの2つの性格、「人と合わない」「穏やかな自分のペースを保ちたい」が天才至上主義に火をつけていたということです。

無駄

 天才至上主義に陥ってからというもの、「無駄」という言葉をよく考えるようになっていました。

・どうせ、天才になれない自分が学問を楽しんだって無駄だ。そんな小さい一歩は、天才の巨大な進歩に消されてしまう。
・どうせ、自分が充実したって無駄だ。そんな泥臭い充実は、自然を真に探究する天才たちの前では、恥ずかしいようなものだ。
・自分が本気で物理をやったとことで、もう無駄だ。やればやるほど、自分が不器用であるという恥をさらすだけだ。

 こう考えてしまい、物理への愛も、探求心も死んでいました。

 私は精神不安定になるたびにこうした思考に没入してしまうため、自分が嫌で、だれが悪いという訳でもないので自分を責めるしかなく、生き地獄でした。そして暗い顔をしている自分を見た母が「どうしたの、何かあったの?」と訊いてくれるのですが、うまく答えられず、そこから言い合いになることもありました。

 精神状態の波に合わせて、最も深い谷が訪れるたびに、もう6年もこんなことを繰り返しています。

天才・凡人がそこまで気になるのならば

 昨日も、そのような日でした。母に「自分って生きてる価値あるのかな?」とこぼした私。私は昨日、物理のとある分からない問題にやられてしまい、天才至上主義の思考に苦しんでいました。母は「生きる価値はある」「学問はひたむきにやる姿がかっこいい」「応援している」と励ましてくれました。それはとても有難かったです。しかし、私は天才至上主義に巣食われており、母に「こんな自分が一生懸命になっても、圧倒的にできる人に消されてしまう」というと、母は「それじゃあもう私からあなたに言ってあげられることはない」と言い、私の元を去っていきました。

 昨日は、自分が明らかに悪いのに、それを反省できないほど天才至上主義にむしばまれていた私が許せなかったです。そのまま昨日は寝ました。


 しかし、今朝、起きたことですこし発想が変わりました。

「自分の小さい一歩が消されることや、自分の小さい充実がそんなに醜いと思うのならば、いっそのこと『自分』という物差しを消したらどうか?」

「つまり、基準を『自分』に考えるから自分の一歩や充実が『小さい』となるのであって、『自分』を考えず、常に畏敬の念を抱いていれば、そんな葛藤は消えるのではないか?」

「自然現象を解き明かしたい!という純粋な好奇心と同じように、『自分に分からない事』をわかる天才たちはすごいな!かっこいいな!と思い、自分が天才でないことは、むしろ天才たちから刺激を受けるチャンスにしてみてはどうか?」

「自然の神秘や、学問の奥深さに憧れていた童心で物理をやっていれば、天才という存在は、自分にとっての脅威ではなく、自分の憧れる人たちになるのではないか?」

 このような発想が湧き上がってきたのです。今までは、天才は自分の充実を消す脅威のような存在で、いくら自分が頑張っても、天才がちょっと力を出せば、自分は簡単に追い越され、消されてしまう。

 そう思っていたので、天才にならないと自分の穏やかでマイペースな心は保てない、と思って天才至上主義に苦しんでいました。

 しかし、それらの思考には、いずれも「消される自分」であったり、「小さい充実を味わう自分」であったりと言った「自分」が主軸にいるから苦しいのではないか。この「自分」の観念こそ消し、学問や天才たちに憧れ、畏敬の念を抱くような童心をもてば、この葛藤は解決するのではないか。

 今の自分に必要なのは、この「憧れ、畏敬の念」を自然にもてるような環境や認知の改善を考えていくことではないか。

 そう考えると、天才至上主義による苦しみは少しずつ晴れていきました。

今朝考えたことは「ジョージの原理」と同じ

 じつは、今朝考えたこれらのことは、真新しい考えではありませんでした。以前も、同じようなことを考えていました。

 それはかつての私が「ジョージの原理」と名付けた考え方でした。

 (前略)そのような中、私はあることを考えたのでした。それが、「いっそのこと、天才や凡人など考えず、全ての人や物を下の位置から見上げるようにして好奇心と畏敬の念を持って生きたい」という考えです。

『ジョージの原理』|ねこっち  より引用

 「ジョージの原理」とは、アニメ『おさるのジョージ』に出てくるジョージのように、好奇心と探究心で物事を上からではなく下から見上げるように見ることで、純粋に学んでいくことがよい、という一つの生き方のことです。

 思えば、以前も同じようなことに悩み、同じような結論を出していました。今改めて、「ジョージの原理」に戻る時だと思ったのでした。

最後に

 いきなり「ジョージの原理」を体現できるほど、今の自分を一気に変えようとすると、つらくなってしまうかもしれないので、今日、明日は当分、この考え方を頭の隅に置いておくだけにします。

 この記事は内容がまとまっていないかもしれませんが、今思ったことを備忘録として書きました。今度こそ、ジョージの原理を忘れないように、これを今後のモットーとしていければと思います。

 最後までお読み下さり、ありがとうございました。

   ねこっち

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