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松井さんのタクシー

猫の爪みたいな、細い月が白く光る夜だった。深夜のオフィス街で乗せた男性はラフな服装で仕事帰りには見えなかったが酒の匂いも無かった。乗り込むと、こんな深夜に川の方へ向かうよう言った。「釣り、じゃないですよねぇ。」釣竿は持っていないしバーベキューパーティーに参加するには遅すぎる。40代くらいのその客は「いや、近道なんだ。近くまできたら案内するから。」と言ったまま俯いて黙ってしまった。

しばらく走り、川の2つ手前の赤信号で止まっていると、運転手仲間が川の近くで幽霊を見たと言っていたのを思い出してしまった。今日と同じ水曜日の深夜。人通りのない道。しんと静まりかえった車内。

「子供の頃になりたかった大人になれました?」

タクシー運転手なのに、この道が怖いなどとは言えず、けれど黙っているのも耐えられなくてつい聞いてしまった。バックミラーで見える客は唐突の質問に少し驚いたようだが首を傾げて「そう言われてみると、子供の頃は何になりたかったかなぁ。」と考えながら聞き返してきた。「お兄さんはタクシーの運転手になりたかったの?」ミラー越しに客を見ながら「そうなんですけど、」と会話を続ける。幽霊なんてのは明るい話をしていれば出てこない。ような気がする。

「子供の頃、松井さんに憧れてタクシーの運転手になりたかったんですけどね、すっかり忘れて違う職業についてました。でも色々キツくて辞めたくなった時に松井さんのことを思い出して、せっかくだから夢だった運転手になろうって転職したんですよ。」客は窓から外をキョロキョロと見ながら「松井さんって?」と聞き返してきた。「国語の教科書に出てきた物語に登場するんですよ、松井さんってタクシーの運転手。白い帽子が落ちていて、拾ったら蝶が逃げちゃう。そのすぐあとに乗せた客が花畑までタクシーに乗るって話なんですけど、僕そのシリーズが好きでよく読んでいたんです。」キョロキョロしていた客はピタリと固まったように動かずにミラー越しに僕を見た。「それ、夏蜜柑か柚か柑橘系の果物が出てくる話のことかな。」「最初に出ます。逃げちゃった蝶の代わりに帽子に入れたんです。いやぁ、なんだか嬉しいなぁ、知ってるなんて。」僕のテンションが高すぎたのか、客も少し笑ったように口元が緩んだ。「懐かしいな。昔、子供が教科書を読む宿題があって毎日聞かされたよ。」僕も毎日家で読んだなぁ。「お子さん、何歳ですか?」僕の質問に客はゆっくり目を閉じた。「何歳になったかなぁ…。離婚してから会わせてもらえてないんだ。仕事もしないで毎日ダラダラしてるだけの悪い父親だったから仕方ないんだけどね。」聞いちゃいけない質問だったかな、と思ったが怒っている様子は無かった。目を閉じたまま教科書を読む子供を思い出しているのだろうか。

「子供の頃なりたかった大人か…。こんな筈じゃ無かったと思う事ばっかりだよ。」ゆっくりと目を開けて僕を見ながら客が言った。「タクシーだって思ってたのとは違うだろ?この先の川のあたりでタクシー強盗があったじゃないか。自分が乗せた客が強盗かも、と怖くないのか?」そうだった。それで川の近くに殺された運転手の霊が出ると噂になっているのだ。「強盗が僕の客だったら可哀想になっちゃいますね。」僕の言葉に不思議そうな顔をする。「金に困っての犯行だろうけど、僕はまだまだ半人前であまり客を乗せてないから売上げ少ないんですよ。実はちゃんと釣り銭も用意してなくて自分の財布にも千円しか入ってない。どう頑張っても五千円あるかどうか。千円札と小銭強盗なんてニュースになったら犯人も僕も可哀想じゃないですか。」真面目に答えたつもりだが客は大声で笑い出した。「千円札強盗!凶悪だか間抜けだか分からないな。そんなあだ名つけられるなら恥ずかしくて強盗なんか出来ないね。」

青信号を抜けると、客は川へは行かずにコンビニに止めるよう行き先を変えた。僕がお釣りをちゃんと用意してなかったのでコンビニで一万円札を崩してきてくれるそうだ。すぐに缶コーヒーを持って客が戻ってきた。

「はいこれ、おまけね。」と缶コーヒーを僕にくれて、ここまでの運賃を支払ってくれる。「目的地まで行かないんですか?」僕の言葉に客は笑って、「お兄さんは間抜けだし、別れた子供のことを思い出したら何だか拍子抜けしたよ。」と歩いて行ってしまった。褒められてはいない気がするが幽霊の出る川に行かなくてすんだ。客は川とは逆の最初に乗せた方角へ歩いて行ったけれど、どこへ向かっていたのだろう。


タクシーを降りた男はポケットにナイフをしまったまま家路についた。今夜は久しぶりに子供の夢が見られそうだな、と考えながら。

え!?サポートですか?いただけたなら家を建てたいです。