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友人を応援するなんて、当たり前にするだけだ

今回の話は、かつてお手伝いした映画作品が、様々な映画祭で受賞やノミネートを重ねて、さらには配信もされたとのことなので、お祝いを兼ねてnoteに書いてみようと試みています。

こんにちは。コンプリヘンドというバンドでアートワーク&マネジメントをしている根本すずです。
友人へのお祝いでもありますが、せっかくなので私の思想も伝えてみようと思います。

(たくさんの受賞、ノミネート、そして配信、改めておめでとう!)



『Veils』という映画

『Veils』は、私がお手伝いをした映画です。
(本当に当日のお手伝い程度しかできていないので恐縮ながら…スタッフロールに制作チームの1人として名前も掲載していただいております…!)


LGBTQ+関連の映画ではありますが、ただLGBTQ+の映画として見るのは勿体無い作品。
当たり前に過ごせる生活ってなんだろうかと問われるような、
本当に身近であり、どんな人であれ、みんな誰もが普通であることを知れる作品だと思っています。

配信が開始したそうなので、ぜひご覧になっていただきたい。

繊細に人の日常を描いていて、日常の喜びも切なさも美しいの。
ただただ人を人として、周りの人を大切にできるだけでいいよね。
お互いに歩み寄れば、慮るだけでもいいのかもって感じられると思います。



実は参加した時に感じた、違和感をひとつ

顔合わせの時にプロデューサーが
「出演やスタッフで参加している人は、公言の有無を問わず全員、当事者やアライの人たちに参加してもらいました。」
と話してくれました。

この時実は『アライ』という言葉を初めて知りました。
そして私は『アライ』であるということで参加していたようです。

アライとは

アライ(Ally)、正しくはストレートアライ(Straight Ally)と言います。自分は、LGBTでは無いけれどLGBTの人たちの活動を支持し、支援している人たちのことを言います。

米国で、LGBTの方々を支援し、同姓愛に対する嫌悪や偏見を持つ価値観などの解消を促すための活動(Straight Alliance)が盛り上がり、これらを支持する人がアライ(Ally)と呼ばれるようになりました。

引用:日本LGBT協会HPより


本当に誤解されるかも知れないし、この話で悲しまれたりしないといいなと思っているのだけれど…
私がこの話を正直に書いたことってあまりなかったかも。
当事者の友人たちや周りの人に、誤解なく伝わったらいいなと思っています。


実は、アライという言葉について教えてもらった時に、違和感を感じたのですよね。

アライという言葉が必要な世界に違和感を感じたし。
そして、自分がアライ枠で参加しているというおこがましさにも。



人の感情を決めつけることへの違和感

今思うと、アライという言葉に対して感じた違和感は「支援する」「応援する」というキーワードだったと思います。

実際に、私はLGBTQ+の当事者である友人は学生時代から多かったのですが、カミングアウトをされた時にも何も変わらないのは事実です。
だって、友人が友人であることに変わりはないから。

きっとそういう変わらない反応が「あなたはアライだもんね」と彼ら彼女らが受け入れてくれた理由かもしれない。

でも、支援するということは…

彼ら彼女らのことを、かわいそうな人や大変な人であると無意識に思っているのでは?とも感じるのです。
また、支援するということは反対に敵がいるということ。
友人に敵を存在させるというのも嫌だなって思うのです。


それに、求める状態を目指して頑張るのを応援するのは、彼らがLGBTQ+当事者だからじゃない。
頑張りたいものがあって頑張っている仲間だからです。
仲間のことくらい、当たり前に応援するよ。

その理由が、今回であればLGBTQ+関連であったということです。
私は誰であれ、どんなものであれ、なんでも応援する。
みんなが過ごしやすい世界であれば、どんなものでもいい。



みんなただ 『人』 である

LGBTQ+とはって、私が語るのもおこがましいなと感じていますが…。
少し私の考えを書いてみようと思います。

まず、私は実際にアライだと感じてもらえる者なのかもしれないけれど、誰もが過ごしやすい環境になればいいと考えているだけなので…アライと言えるのだろうか。

当事者の方たちから「あなたはアライだね」って言ってもらえる分にはいいのだろうけど、自分から言うには…友達の状況を利用しているみたいで違和感だったりします。


そもそも私にとっての同性愛は、人が人として人を好きになっただけでしかない。
偶然にも恋をした相手が同性であっただけでしかない。
異性愛も一緒で、人が人として人を好きになっただけでしかないのです。

体の不一致についても、自分自身が安心する姿形を望むのは、性別関係なくみんなそうだと思っています。
服装についてだって一緒。
私は当事者ではありませんって言う人だって、自分の姿形に納得した服を着るでしょ?

もちろん、手術やホルモン治療等の努力が紐づいているので、一緒だとするには暴論だとは思いますが…ざっくりした感覚はこんな感じなのです。
みんな好きな格好で生きられる世界がいい。

子をなすことについても、遺伝子研究の分野では同性カップルで子をなせる可能性があることはもうわかっているそうですよ。
人にはまだ適用されていないし、研究段階だけれど。
それでも、実験では成功しているのも知っています。
すべては、『今はまだ』だけだと思っています。

また、恋愛したい人もいれば、恋愛したいと思わない人もいる。
どの性別にも違和感がある人がいるのも知っている。
性別という括りが不要だと感じる人もいる。
(実は、私は性別不要だと感じています)
他にももっと、いろんなバリエーションがある。


それらの根っこは全部一緒だと思います。
みんな、ただ人として、ただ生きているだけだと思っているのです。



アライという言葉が不要な世界に早くなればいい

アライというキーワードが必要なのは、人が人としての尊厳を守られておらず、戦わなければならない環境があるからではないかと思っています。


学校、会社、家庭、コミュニティ、どんな環境に対してであってもみんなが、誰もが、心地よく過ごせればいいと思う。

偶然にも自分の生きる環境に違和感なく過ごせているラッキーな方は、それでいいし、そのままでいいと思うのです。

偶然にも自分の生きる環境に違和感のある人は、違和感なく過ごせる環境で過ごせるようになればいいと思うのです。


きっと、何かのカテゴリー1つにくくるから難しくなるんじゃないかな。

マジョリティにもマイノリティにも、分けることすら必要なくて。

一人ひとりを、その人個人として、お互いに大切にするだけでけっこう世界は変わるんじゃないかなって思うのです。


当たり前に日々顔を合わせて過ごしている隣人が当事者かもしれない。
それくらいに、身近な話です。
それくらいに、当たり前の話です。
もし知っていても知らなくても、日常なのです。

知らなかったら、今から知ってみようとすればいい。
もし相手が嫌だと感じることを言ってしまったとしたら、それはLGBTQ+関連の話だからとかじゃなくて、ただ人として謝って今から知ればいい。


みんなが好きな場所で、好きな人と好きなように過ごせたらいい。
仲間と過ごすのが好きな人は、好きな仲間と集まれたらいい。
1人が好きな人は、1人で心地よく過ごせる場所があればいい。

本当に何でもいいくらい、みんなが自分を生きられたらいい。


私自身も自分を「生きたいと思える人生」に連れて行きます。
自分の好きすらわからなくなる位、我慢してきたから、まずは好きを知る努力を始めています。

みんなも自分自身を「生きたいと思える人生」に連れて行けますように。


見てくれてありがとうございます。
みんなの人生に、みんなの毎日に、幸あれ!
それでは、またね!



お知らせ

▶︎comprehend(コンプリヘンド)◀︎
『誰かの為だけの人生になってないか?』
『自分を生き抜く』を歌うオルタナティブロックバンド。

激しく繊細。
美しく愚直。
あらゆる要素を包括した、ジャンルの枠に囚われることのないcomprehendの音楽を構築する。
comprehend
vo/gt 根本直哉 ba/cho 外山タロウ
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