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茹る世と蛍

 ことばの海を泳ぐ快楽、こころの脆さ、そして世界はゴミに満ちていることを知った。美しい星に汚物が散見される世の中だと思っていたが、実際は屍臭の漂う世に、可憐な花がぽつりぽつりと咲いているだけなのだと知った。あなたはその可憐な花を摘み、私の枕元まで運んでくれた。花は私を安らがせた。
現世への絶望はどうしようもなく愛おしく、期限付きの幸せと矛盾ばかりの感情、そして歪な形の花を抱きしめながら、一途に走った。すぐに明ける夜は、私の希死念慮を麻痺させた。夜の喧騒を抜けて終電を越え、飲めないコーヒーを飲みながら、愛おしいものたちを溢さぬよう両手で包み、力尽きるまで濡れたアスファルトの上を走り続けた。

 病室から飛び降りることばかり考えていた退廃的な時間は、海とあなたを愛す尊い時間になった。あなたは笑わず、そして期待もせず、幾度もゆっくりと深く頷く。その平穏さに私は何度も救われ、何度も心をかき乱された。核心を避けるための笑みも、言葉を口内で昇華させ口籠る様子も、それらに気付き傷つく自分に見ぬ"振り"をし、飄々とした"振り"をする。私もあなたと同じ道化師である。朧げな実像、そして何重にも成すあなたの輪郭は、地平線の如くいつも遠くにいる。きっと、私の傷など知らない。
 今世紀最大の我儘、傲慢な欲望を道化で紛らわす。私の"振り"はいつか見破られてしまうのだろうか。この感情は、決して恋慕や愛情ではない。もっと尊くて心が冷えるものだ。言葉を与えてくれたあなた、思想を与えてくれたあなた、妥協する生を教えてくれたあなたに、私は偉大な愛を抱いているだけだ。

 現世への反骨心を腕に刻んだ。ゴミだらけの世に咲く可憐な花のように、私も花になりたかった。刻んだ青薔薇を、あなただけは素敵だと言ってくれた。薔薇の棘に毒されてしまう前に、早く私は摘まれたい。
人生の終止符はいつ打たれるのだろうか。形あるものはいつか壊れてなくなってしまうから、私は壊れる前に消えてしまいたい。形のあるうちに、美しく散りたい。あなたは私にたくさんの花を与えてくれたけど、私の花にはまだ名前がない。無力さが虚しくつらい。

 私はいつか、時代に逆行しながら、ゆっくりと海を泳ぐ青い薔薇になるのだろうか。きっとそれも悪くないだろう。何者にもなりたくないと言うと、あなたはいつもやさしく笑う。私は私のままで生きたい。甘ったれでもいいから、もう少しここにいさせて。大人までのモラトリアムを過ごさせて。
私はこの地点に土着する。土着しながらも逆行する。依存しながら拒絶する。拒みも肯定もしないあなたが、今の私には心地いい。今まで鮮烈な景色を見せてくれていたあなたはもうおらず、私は自ら窓を作らなければならない。優しい言葉を期待しながら、心に予防線を引く。あなたの目の光が一つなくなったことに私は気付いている。ルイボスティーを飲み、惰眠を貪る。あなたが手の中で見せてくれた蛍の六本足は、やけに生々しく鳥肌が立った。闇で光る黄色い灯は私の心を灯した。心の輪郭を初めて見た。危うい美、失ってから気付くであろう幸福が、私の心を平衡に保つ。ちぐはぐで矛盾ばかりのこんな私を、あなたに見ていてほしかった。そんな傲慢な感情は心の奥底に沈めておく。二度と顔を出さぬよう、強く踏みつける。

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