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諦念の古傷

 息を呑んだ。胸の高鳴りではなく、心臓がやけに焦りながら連続で脈を打った。涼しい部屋なのに汗が流れた。寒いのに暑い、脂汗が。食道や胃を摘まれた感じがする。吐き気がする。苦しみも悲しみも咀嚼しきれず、身体の外に出てしまった。呑み込まなくては成長せぬのに、血肉になることなく身体はそれを拒絶した。私はずっと小さいままここに佇んでいる。

 これは私の傷だ。あなたの言葉によって、心臓をくり抜かれた感触がする。剥き出しの内臓が脈を打っているだけだ。魂も思想も道徳も規範も、あなたのモラルに全て擦り潰されてしまった。氷の輪を頭に嵌められ、血の気が引いた。私はもう己の足で歩けない。
優しかったあなたの人格は、きっともう死んでしまった。被っていた猫も死んだ。棘を隠すための言葉のオブラートは破け、あなたの毒は薬なのかもしれないという錯覚に陥る。あなたが私に打つ毒、乃至は薬は強烈だから、全てを吐き出してしまう。身体に作用することなく、異物となり外に出る。楽になりたい。幸せになりたい。束の間の快楽でいい。麻薬を打って欲しい。優しかったあなたの幻覚を見る。何が好きだったのか、もう思い出せない。

 終わりにしよう。二度と現れぬよう、二度と苦しまぬよう、二度と自己嫌悪の崖縁に立たされぬよう、私はあなたの脳みそを殴る。二度と復元されぬよう、写真も愛も燃やす。嫌いだ、大嫌いだ、もう全部、消えてしまえばいい。幸せも愛おしさも全部燃えてしまえ、きっとせいせいする。立ち上がった熊のような大きな炎が私たちを埋め尽くした後、傷ついた私の心だけが燃え滓として残った。元々愛だったものは屑にもならず、全て燃え尽きた。残った心を骨壷に入れ、そっと埋める。夏の夜に健やかだった心と会えるよう、激しい殺戮を供養するため、私は手を合わせた。蝉が鳴き始めている。向日葵の地中には、私の傷ついた心が埋まっている。彼らは私の傷を吸い上げ夏の顔になり、太陽と共に首を回す。夏に咲く黄色の花弁は、私の古傷を想起させる。

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