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葬想覚え書

 納棺師が死化粧を施すさまを目にして、あなたが日常だった日々を想い出し、涙が止まらなかった。お経よりも傘村トータの「あなたの夜が明けるまで」がうるさく脳内で鳴り響いていた。私はあなたの孤独を知っている。生きる理由を真面目に模索し、疲弊するあなたを知っている。しかしあなたに生きて欲しいと、傲慢な欲求を抱いてしまう。終わりの世界で死にたいと思うことは、とても理解る。だけれども、愛おしい人にはこの世で生きていて欲しいと思ってしまうのは何故だろう。人間の利己なのだろうか。世に汚染される脆さや純粋さは、汚物まみれの世に気付かぬ鈍感さや幸福さになって欲しいと祈ってしまう。あなたをなくした傷は癒えず、気付けば三回忌も終わってしまった。次お目にかかれるのは、四年後か。あなたをなくした傷が癒える日は来るのだろうか。

 初孫の私を愛おしそうに抱く優しい表情は、忘れられない。物心もまだつかぬ幼き私が、初めて感知した愛だった。母以外の腕に入ることを、唯一許せた人だった。あなたの優しい顔を見ていると、エベレストのように高いプライドも、私を毒した俗世への恨みも、全て消えた。あなたの言葉はわからなかったけれど、私への愛おしさや優しさを知っていた。贈り物をするでもない、無理に多くの会話をするでもない。そんな形に囚われたものではなく、私の苦しみを知覚してくれたことと優しい目、そして照れ隠しの冗談が愛そのものだったのだ。言葉なんてなくともあなたからの愛を知覚できたし、私もあなたが好きだった。

 あなたはよく、私の空想話に付き合ってくれた。他人から理解者面されるのが大嫌いな私だが、あなたは唯一の"理解者"なのだと強く思う。「理解者」とは、理解されている側の人間が使う言葉であったのだ。
私の傷や苦しみを想像するあなたの姿に、私の心は縋っていた。苦しみや俗世に呑み込まれず今日を生きれているのは、あなたが存在していたからだ。

 綺麗だった家はどんどん汚くなっていき、あなたはいつか会った日よりも萎れていた。いつかもっと細くなり消えてしまうのではないか。そんな不安に何度も涙を飲み込み、気付かぬ振りをした。コマ送りで再生されるあなたからの愛の走馬灯が、目の裏でゆっくりと流れていく。無償の愛、無償の優しさを胸に、涙を堪えながらあなたの家を掃除した。あなたの身体を蝕む黴を、そして蟲たちを私は丁寧に殺した。

 あなたの顔が白い布になった時、私は異次元に飛ばされたような心持ちがした。式場から家に帰ると、座椅子でいつものように胡座をかき、真夏だけれども温かい緑茶を啜っているのではないかと。聞き慣れない言語のラジオを流しながら、風に当たりうたた寝をしているのではないかと。演歌を口遊みながら、律儀に一輪ずつ水を撒いているのではないかと。そう思ったが、あなたの匂いのする座椅子と、電源の入っていないラジオ、そしてあなたがいなくとも吹き込む風が部屋にあるだけだった。あなたがいない世界を知らぬ私は、あなたの残雪を見ながらも、あなたが星になった事実が理解らなかった。いつもの風景からあなたが切り取られてしまうだけで、そこは異空間だった。

 あなたが愛用してくれていたお揃いのコップに毎日日本酒を注ぎ、残雪の前に置くのはなぜなのか。私は何に手を合わせているのか。なぜ線香を焚き、鐘を鳴らしているのか。そしてあなたは一体、どこにいるのか。どこに隠遁しているのか。成人式の私の写真を握りしめながらモルヒネを打たれるあなたを見ながらも、これから生気を取り戻すと思っていた。握る写真を見て「お孫さんの結婚式ですか?」と聞かれると「まだ早い」と怒ったあなたはどこにいる?
私は現世であなたを探している。私の苦しみに寄り添ってくれたように、あなたの孤独を想像しながら、何度でもあなたに精一杯の愛を向ける。まだ青く懐が浅い私、心が狭い私は、あなたの輪廻を受け入れられない。おじいちゃん。名を呼ぶことで、あなたに呼びかけることで、ここにあなたを立ち上げる。私とあなた、二人の世界を作る。昔のように、何度でももしもの話をする。あなたが手塩にかけて育てた花には、私が水を撒く。あなたが大切にしきれなくなった部屋の潔癖さは、私が取り戻す。何度でも白く磨き、昔のあなたをここに立ち上げる。
人は声から順番に忘却するとしばしば言われるが、私を呼ぶ声、優しい声、聞いてしまった弱音、口籠る言葉にならぬ言葉が鮮烈に耳に残っている。私は一生あなたの側にいる。あなたも一生私の側にいる。だから私は死を考えることをやめた。絶望的な俗世を生き切ってやる。あなたの記憶は、きっと手放さない。

 何度あなたの命日を迎えても、あなたの不在を知覚する度に涙する。あなたが与えてくれた愛を溢さぬように、大切に抱きかかえ残雪を握りしめながら、私はまたあなたとの世界を描き続ける。

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