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苦楽外(宮澤ひしを)を読んだので感想

宮澤ひしを先生の作品は今回が初めてになる。

表紙が本当に目を引く。美しい。絵が本当にうまい。私はもともと「青」が好きだから、それも目を引いた理由になっているとは思うが。やはり「青」は無条件で芸術になるなぁ…。そう思わされるくらいに青い表紙。マンガ表紙コンテストに出したら、まちがいなく上位にランクインするんじゃないかな……知らんけど。

一応は一読したので、感想を書いていく。まだあまり理解できていないが、そのもやもやが心地よい作品だ。

あらすじとかは書いても、私にとって意味がないので、概念をどう理解したか。それについて主に書いていければと思う。

まず外せないのが、『苦楽外』という概念。

これは作品のなかでは、妖怪の類とされている。まくら返し、トモカヅキなどなど。そういった様々な妖怪の概念の総称として『苦楽外』があるらしい。

ただこの『苦楽外』はもっとより抽象化された概念だと思う。なにかのメタファーになっていて、この言葉をどう読み解くかで、この作品を深く読み込めるかが決まってくる。

まず気になったのが、大人という概念に擬態する、というところ。概念に擬態するとは、なんとも新しい響きのように思える。少なくとも私はかなり言語感を揺さぶられたような気がしている。

『大人という概念』は言葉どおり、大人という存在はそもそもなくて、大人は概念でしかなく、その概念のなかで『苦楽外』の赤ちゃんは見つからないようにひっそりと擬態し、心の傷から原風景へと侵入する機会を伺っている存在ということ。たぶんそういうことだと思っている。いや……『苦楽外』もまた概念なのかな。わからなくなってきた。

作品の大半は、すでに心の傷から原風景に入って成長した『苦楽外』がさらに踏み込んで、辺鄙な原風景から脱しようとする、つまり『大人という概念』になろうとする。その一連の様子が描かれている。後半では隠されていた過去を『苦楽外』が解き明かし、性交渉をすることによって、『苦楽外』は完全な『大人という概念』になる。。。こういう感じの解釈でいいだろうか、どうだろう。

そして『苦楽外』は念願の東京へ行き、そしてまた原風景に戻ってくる。自分が誰なのかを忘れたまま……

東京に行くまでは、おれ=苦楽外

原風景に戻ってきたときには、おれ=おれ

これが意味することはなんだろうか。わかんないや。

『苦楽外』は原風景のなかで彼の過去を清算させているともいえる。そういう存在、過去を見つめさせる、見ないようにしてきた過去をしっかりと清算させる存在。そういうふうに捉えることはできないだろうか。

彼は自分自身の過去を一応は見つめ直し振り返ることができたと、私は思っている。

しかしそうしても原風景は原風景のまま変わらない。すこし解像度が上がっただけ。ただそれだけだ。

この作品の伝えたいことが、私なりに分かったような気がする。

『大人という概念』と『子供という概念』

どうしてこの二つは対立してしまうの?

どうして一つの存在(自分)で、概念でいられないの?

どうして心のなかにある原風景に人は住み続けることができないの?

どうして自分という概念を置いてきてしまうの?

こういうことが伝えたいのではないだろうか。少なくとも私はそう感じた。

私も今は東京に住んでいるが、いつの間にか東京の生活に馴染み、過去を置いてきてしまった、そんな心にぽっかりと空いた穴のようなものを最近は感じている。

私も確かに原風景を置いてきてしまっている。

もしかすると、私のこころの片隅にも『苦楽外』がいるのかもしれない。

『苦楽外』は原風景に帰りたい。そんな現代人の心の奥底に眠っている大事な、大切な気持ちなのではないだろうか。

いい感じの解釈。自分なりの読み解きができたので、ここらへんで終わりにします。

めっちゃいい漫画でした。

ありがとう、宮澤ひしを先生。


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