「保守主義者は怠け者である?」論
前からなんとなく思っていたことを文章化してみます。
私は政治とか経済は全然専門ではないので(保守主義についての文献も全然読んでいない)、的はずれなことを書くかもしれませんが、明らかな誤りについてはコメント欄で指摘していただければと。
さて。
「保守」「保守主義」とはどういうものでしょう。
あくまで私なりの独断と偏見ですが。
「ある、一定の時、場所、そこでの生活様式、などを一つの理想として据えて、そこから離れまいとする、あるいはそこに戻ろうとする発想」のことを言うのだと思っています。
そして、そういう発想をする人たちが(私の考える)保守主義者です。
ネットとかでしばしばネタにされ、一種の嘲笑の対象になることもある『日本の息吹』(「日本会議」の機関誌)の一連の表紙イラストなどは、まさにそういう「保守主義」の人たちのマインドを一目瞭然に示しているように思います。
下で、最近の表紙が一覧で見られるのではないかと思います。(「詳細を見る」→表紙画像をクリック)。
しかしです。
《同じ川に二度入ることはできない》(ヘラクレイトス)。
万物は移り変わるのであり、それに抵抗するのは本来、並大抵の覚悟でできることではありません。
確かに、そういう覚悟を持った人たちも世の中にはいます。
米国にアーミッシュという人たちがいます。
(次の動画は、自動翻訳の日本語字幕を、一応付けられるようです)
私の考える「真の」保守主義とはこういうものです。
将来の世代にもこの生き方を強制するような部分が、必然的に生じるだろうし、それをどう考えるかについては難しい問題を含むでしょうが。
でも、ここまでやるなら見上げたものだし、私は認めます。
(ちょっと、上から目線の言い方かも。)
ただ。
現実の、特に日本の、いわゆる「保守主義」の人たちの大部分は。
別にここまでの覚悟があるわけでもなく。
単に自分や社会の「現状をただ追認し」、「自分の生活上の手癖のようなものを、今後もずっと使い続けたい」という怠惰な方針をもって「保守主義」という美称をあてているだけなのではないか、と。
そんな風に思うことがしばしばです。
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もう少し、この点について、見てみようと思います。
先のアーミッシュの例を見るまでもなく、世の中は常に変化しています。
電気や水道の普及なんていう巨大な変化の話を仮に脇におくとしても。
単に我々の生活にスマホという新発明品が入っただけでも、もう我々の生活は「昨日までと同じ」とはいきません。
Wikipedia の「炊飯器」の項に、こんな興味深い記述がありました。
今日、「寝ている間に米を炊こうなどという女」の人は普通に結婚できると思いますが。
たかだか自動炊飯器ごとき(というのもアレですが)が相手でも、「日本の伝統的な生活」、あるいは「価値観」は、大きな変化を余儀なくされたわけです。
こうした変化を嫌い、アーミッシュ的に一切の新しいものを拒否する日本の「保守主義者」はどれくらいいるでしょうか?
恐らく、そういう人たちのほとんどは、このような「新しい潮流」を散々貶し、受け入れを拒み。でも、ついに拒みきれなくなったとみるや、渋々受け入れ。いざ受け入れてみると、やはり便利なので大いにそれに頼り。しまいには、昔から大いにそれを活用していましてたと言わんばかりのすまし顔。
そんな感じなのでは。
こういうズルさこそ、いわゆる日本の「保守派」の大多数の人に共通する特徴ではないかと思うこともあります。
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また、こんなことも思います。
かつて、日本で公害などが大きく問題となり、環境問題に取り組む人たちが出始めたとき。いわゆる保守派の団体とか政治家さんとかは、「美しい日本を守ろうとする」この人たちを大いに褒めそやしたか?
いえ、私の記憶する限り、「あいつらはアカ(※)だ」とかなんとか言って、こうした運動に携わるのはまともでない人たちであるように印象付けようとしていたように思います。
(※アカ=「赤」は社会主義のシンボルカラーで、この場合は、社会主義者をののしる言葉。とは言え、実際には「保守派」の人達にとって目障りな人々を、十把ひとからげに貶す類の言葉と思って良いと思います。)
さて。しかし、こういう環境保護を訴える人たちの活動がそれなりに実を結び。
公害問題が極めて深刻だった時代に比べて、我々の身の回りの自然も大いに回復し、その美しさがだいぶ戻ってくるや。
保守派の人たちはこう言うのです。
「私達はこの美しい日本という国に生まれて幸せです。」
「この美しい国土を守っていかねばなりません。」
「我々は常に、この美しい国のことを考えて行動してきました。」
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ずっと今までのようにやっていきたい、今までどおりがいい、と言ったところで、世の中の状況は刻一刻と変化していきます。
様々な問題も起こります。
保守派の人は、そうした問題に対し、基本「付け焼き刃」的に対処する感じになるでしょう。その立ち位置的に、これは避けがたいことなのではないかと。
そして、実際、それで十分、あるいは、それこそベスト、という場合だって少なくはないでしょう。
しかし。
世の中の流れそのものに切り込んで、流れそのものを大きく変えることは、この人たちには向いていないと思わざるをえません。
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未来を大きくイメージし、(現状の単なる延長線上にあるものではない、しかし優れた)理想を描き、グランドデザインを構想し、そこに向けて社会を動かそうとする。
そういうことは、根本的に保守主義者の不得手とするところであろうと思います。
確かに、人間の知恵「ごとき」で社会を大きく変えようとしても、必ずしもうまく行かない、失敗もする。
そういうことはあるでしょう。
(でも、もちろん大成功することもあります。我々がいま当たり前のように思っている、三権分立も、国民主権も、元をただせば啓蒙思想家たちの、ひどく実験的な発想が実を結んだものです。)
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日々変化する日常を、どうにかこうにか、今までのやり方で乗り切ろうとする(そして、何とかなったり、ならなかったりする)というのも、市井の人なら別に「ご勝手に」といえば「ご勝手に」です。
しかし、少なくとも。
現状の大問題に取り組み、世の中の潮流に異を唱える人を初めのうちさんざんに貶し、しかし、その人たち(まさに「偉大な先人たち」)の仕事がようやく実を結ぶ頃になって、それを「自分たちが守るべき伝統」にしれっと組み入れる。
「責任ある立場」にあるはずの人たちが、そういう厚顔無恥な振る舞いをすることだけは勘弁してほしいと。
私はそう思うのです。
※トップ画像は Wikipedia 「アーミッシュ」の項より。