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「あなたはこの国が好きですか」と聞かれたら「アンナ・カレーニナ」を引用しよう

トルストイの名作、「アンナ・カレーニナ」。
実は私、本作は挫折中で、どうにも読み進まないのです(映画は2種類くらい見ましたけど)。

しかし、それでも、読んだ範囲内には、なかなかいいなと思う記述も見つけました。

それでタイトルの話に繋げますが。

外国によく行く人なら「あなたはこの国が好きですか」「この国の人が好きですか」と聞かれることも、一度や二度はあるんじゃないでしょうか。
でも、なかなかうまく答えにくいですよね。

そんな時に役立つ(かもしれない)一節がトルストイの「アンナ・カレーニナ」にあります。
第3部1章の冒頭あたりです。

さて。この文章を、できれば読者の方にも見ていただきたいと思い。探しましたら……。
ちょっとズルい手を使うと、当該部分は「試し読み」できてしまうのが分かりました。

(いえ、実を言うと、「読める」ことが分かったからこの稿を書くことにした、というのが、本当の話の流れだったりします^_^;)。

次の電子書籍。
表紙画像下の(小さい)「試し読み」ボタンを押して、本文10〜11ページ目あたり……。

もう少し細かく言うと、以下の文章に目をお通しください。

10ページ中ほど、
「リョーヴィンにとって農民とは、共同の仕事の主な参加者であるに過ぎなかった。」
から……
11ページ「それまでの見解を改め、新しい見解を組み立てるということをくりかえしてきたのだった。」
まで。

とりわけ、キモになる(と、私が推したい)のが以下の文です。

《たしかに彼は百姓を敬い、(中略)彼らへの愛を持っていたし、ともに共同の仕事に携わる相手として、時にはこの人々の力とつつましさと公平さに感嘆することもあった。しかしいったんその共同の仕事に別の資質が要求されるとなると、農民ののんきさやずぼらさ加減、飲みっぷりや嘘つきぶりに、怒り心頭に発することもしばしばだったのである。もしもおまえは農民を愛しているかと聞かれたら、リョーヴィンはまったく返答に窮したことだろう。彼は人間一般と同じく農民のことも愛しかつ憎んでいたのだ。もちろんお人好しの彼は人を憎むよりは愛するほうが多かったから、農民に対しても同じ態度をとった。》

《だからもしも農民を知っているかと問われたら、きっと農民を愛しているかと問われたのと同じように、返答に窮したことだろう。自分は農民を知っていると言うことは、彼にとっては、自分は人間を知っていると言うのと同じなのである。》(※1)

この文中の「農民」を、適当な国名に変えれば、それがそのまま、大体の国(国民)についての私のコメントになります。

「もしもおまえは○○国(民)を愛しているかと聞かれたら」
「もしも○○国(民)を知っているかと問われたら」

「ねむろTはまったく返答に窮したことだろう。」

自分は○○国(民)を知っていると言うことは、彼にとっては、自分は人間を知っていると言うのと同じなのである。

* * * * * * *

そういえば、私は以前、某国に長めの滞在をするという、若い親戚の人に宛てて、こんなことを書いたことがあります。

(当該国には)いい点も悪い点も多々あります。
でも、まずは現地生活を楽しむことを最重要視すると良いと思います。

どんな国に行く場合でも、まずはその国の魅力や美点に注目するところから入るほうが私は良いと思います。

ただ、そうこうしているうちにその国の問題点なども見えてきたら、徐々にそちらにも注意を向けるようにすると良いかも。

自分の感性を信じて、物事を「あるがままに」感じて受け止めるのが良いと思います。

う〜ん、読み返すと「良いと思います」ばっかりの文章……。


私は幸いにも……というべきか。
これまで海外旅行にあちこち行ってますが、「この国には二度と来ないぞ」というほど嫌な、あるいは苦しい思いをしたことは、ほとんどありません(※2)。
まぁ私は好奇心が先に立つタイプなので。旅先ではあれやこれやのことに注意がそらされ、嫌なことがあってもそこまで強く印象に留まらないだけかもしれません。

上の引用箇所が、私にとってたいていの国に当てはまる、というのには、そんな事情もあるでしょう。

* * * * * * *

ここで終わっても良いんでしょうが、このサイトらしく(?)各国語版も入り口だけご紹介しておきます。

何かの時にこれを引っ張ると、ちょっとインテリっぽい感じになって、相手の人に一目置いてもらえるかも??

全文を貼るのはさすがに煩瑣になるので、はじめと終わりの文章、および、一番のキーセンテンスのみ。これを元にして、(なんなら機械翻訳なども使って)適宜探したり切り出したりしてみてください。

以下、いずれも上でご紹介した「アンナ・カレーニナ」、第三章冒頭近くの文章。

英語版

“To Konstantin the peasant was simply the chief partner in their common labor,

and he was continually observing new points in them, altering his former views of them and forming new ones.”

For him to say he knew the peasantry would have been the same as to say he knew men.

中国語版

(小説のトップは https://m.99csw.com/book/7430/index.html

『对列文来说,老百姓是共同劳动的主要参加者。

因此不断改变对他们的看法,同时也在不断形成新的观点。』

说他了解老百姓,那等于说他了解一切人。

そしてオリジナルのロシア語版

«Для Константина народ был только главный участник в общем труде,

и беспрестанно замечал в них новые черты, изменял о них прежние суждения и составлял новые.»

«Сказать, что он знает народ, было бы для него то же самое, что сказать, что он знает людей.»

韓国語テキストも探したけれど、ネット上に見つけられませんでした(ただの検索能力不足かも)。
ただ、過去にアンナ・カレーニナの翻訳の良し悪しが話題になったことがあるらしいという、ちょっと面白いネタを拾うことができました。
興味のある方は、次の記事を(翻訳機能なども使って)ご覧になってください。


(※1)試し読みの範囲だけでもご覧いただければ分かると思いますが、これはリョーヴィンと、その知識人の兄とを対比した記述になっています。
「農民を愛し、農民を知っていると自認してい」るこの兄(コズヌィシェフ)は、決して「悪い人」ではないのですが、「そんな農民への態度が、リョーヴィンには気に入らなかった」。
コズヌィシェフは「ちょうど田舎生活というものを自分の憎む生活の対極にあるものとして愛し、褒めそやしていたように、農民のことも彼は自分が嫌う階層の人間たちの対極にある存在として愛していた」。
つまり、「リアルな農民」を愛するのではなく、「自分の嫌いな物事に対するアンチテーゼとして、勝手に祭り上げた『田舎生活』(相手国)や『農民』(相手国民)」を愛しているだけのようにリョーヴィンには感じられた、ということでしょう。

(※2)例外は、若い頃に行ったアメリカと中国でしょうか。
ただ、それは、私の旅行スタイルとの相性という問題もあったかもしれないと、今にして思います。
その話も書こうとしたら、どうも長くなりそうな勢いなので。
そちらについては稿を改めて、別に一本の記事として出すことにします。
(中国には最近、よく行くようになりましたが、そういうことも含め。)

※トップ画像には以下の「いらすとや」の画像を使用しました。
https://www.irasutoya.com/2019/10/blog-post_6.html