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トルストイの日露戦争論/釈宗演の日露戦争主戦論に関して

(はじめに補足:本稿を書いたしばらく後に、テーマである釈宗演の論文「戦争を何とか観る」を入手しました。文字起こししましたので、そちらも併せてお読みください。)

「汝ら悔い改めよ」第十二章に、釈宗演(Сойен Шакю)の戦争肯定の議論をトルストイが非難している部分があります。

釈宗演は次の人。

次のサイトにこの人の生涯が分かりやすく紹介されています。

実のところ、私は釈宗演の名前も今回はじめて知ったような次第なのですが。
彼が日露戦争において主戦論の立場を取ったことは、今日でも研究の対象となっているようです。
検索すると中川雅博氏の2つの論文がすぐに出てきました。
(この方については慶應義塾大学文学部非常勤講師との記載あり。)

(ここでの紹介は、これらの論文の趣意に私が同意していることを意味するものではない、ということを念のため申し添えます。)

(論文はpdfの形。ここでダウンロードできるという適切な入り口を見つけられなかったので、pdfファイルに直にリンクを貼っています。)

『無我の報恩 : 日本人を戦争へと誘うもの』
https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00150430-00000131-0105.pdf?file_id=69415

『明治思想における戦争倫理 : 日露戦争に従軍した釈宗演をめぐって』
https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AA12362999-20120000-0101.pdf?file_id=68027

1つ目の論文に、以下のような解説と註があります(資料中のページ割りで115ページ、註は127ページ)。

宗演は,総合雑紙『太陽』の紙面に,この時代の思想界を代表する井上哲次郎の「日本現今の地位と境遇」や井上円了の「對露餘論」とともに,日露戦争に対する主戦論を支持する旨の論考「戰争を何とか觀る 12」を寄せた.
【トルストイの批判】この宗演の主張は鈴木大拙によって英文に抄訳され(表題は “Buddhist View of War.”),「臨済宗の見解ではなく日本の仏教徒の見解であろう 13」と紹介された.これを読んだトルストイが「日露戦争論」(1904年6月27日号『ロンドンタイムズ』. 原題は “Bethink yourselves”)において批判している.批判の論旨は,不殺生を旨とする仏教徒が主戦論を支持するのは,自己矛盾であり,仏教の教説をねじ曲げたものであるというものであった.

12 釋宗演「戰争を何とか觀る」(所収 『太陽』第 10 巻第 1 号,博文館,1904 年,
48–53 頁).
13 Cf. Shaku Soyen(trans. Daisetz Teitaro Suzuki)“, Buddhist View of War.”in
Paul Carus ed., The Open Court(A Monthly Magazine): Vol. 1904: Iss. 5,
Open Court Publishing Company, p. 276.


さて、トルストイはこの釈宗演の主戦論に対して、本文中で批判するだけでなく、註釈を施して(以下、「原註」)、その引用を行い、論旨などをある程度詳しく紹介しています。

この「原註」には釈宗演の論の出典について
(„The Open Court“, May, 1904. Buddhst Views of War. The Right Rev. Soyen Shaku).
……と記載しています。
つまり、上の論文の註釈13の記事です。

(少なくとも1917年版のロシア語書籍では〔Buddhist でなく〕Buddhst という表記になっています。そのせいなのか、ここは春秋社訳でも表記ゆれが見られます。
なお、辞書に「Right Reverend」=「((英))((the ~))尊師(主に英国国教会の主教に対して用いる敬称)」とあります。
[ネット検索で出るweblio英和和英辞書の訳])

さて、この „The Open Court“ 誌の記事ですが、オンラインで読むことができます。

下の方の検索窓、「Select an issue:」に「Vol. 1904, Iss. 5」を選んで「Browse」ボタン。記事一覧から “Buddhist View of War.
The Right Rev. Soyen Shaku” のpdfをダウンロード、です。

(同誌について検索したら、以下の紹介ページが出てきて、私はそこから飛びました。この紹介によると、南イリノイ大学が運営しているアーカイブとのこと。
https://onlinebooks.library.upenn.edu/webbin/serial?id=opencourt )

読んでみますと、冒頭に
“There are about eight hundred monasteries subject to his jurisdiction.”
“His views may be considered as representative not only of his own sect but of all Japanese Buddists. ─ ED.”
などとあり、なるほど、1つ目の文など、確かにそんな記載がトルストイの論文にもあります。

そしてまた、この記事を読んで分かりましたが、ロンドン・タイムズ掲載のトルストイ論文は、この引用部分に関しては、明らかに The Open Court 誌の元記事から引っ張って引用しています(露文からの単なる反訳ではなく)。

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ここでいささか脱線しますが、『太陽』についても少々、紹介をしておきます。

こちらはあいにく、誰でもネットでポンと見られるというような具合にはなっていないようですが。
大学図書館などで契約があると、オンラインで閲覧できたりするようです。

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話を戻しまして。

この「原註」部分、平民社訳ではカットしていますが、加藤直士訳、春秋社訳では訳が掲載されています。
ただ、『太陽』の元記事にあたって大元の言い回しを確認しているかは分かりません。少なくとも春秋社訳は、それはしていない気がします。
(補足:この元記事も文字起こししました。読み比べてみるのも一興かもしれません。)

(元の The Open Court の記事自体には、冒頭に ‘Extracted from the author's article “Senso wo nantoka miru?” published in the January number of the Tai Yo, Tokio. Translated from the Japanese by Teitaro Suzuki.’ としっかり出典が書いてあるのですが、トルストイの論文だけを見ても、この情報が得られないことには、注意が必要かと。)

そして、この場合、英語版から「重訳」している加藤訳の方が、却って有利な条件になっているのが、ある意味面白いところです。

ともあれ、トルストイも読んだこの論説。参考のため、加藤訳と春秋社訳を以下に文字起こししておきます。

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加藤直士訳

(底本のページ割でp110〜113。以下の文中、『 』で括られているのが釈宗演の論説の引用、それ以外がトルストイのコメントという整理で良いと思います。)

◎《附記》此論文中に曰く
『万法世界は悉く我が所有なり、一切衆生は悉く我が赤子なり、‥‥世界の森羅万象は我自身の反照に外ならず、其の来るや一源よりし、其生ずるや一体を分つ、故に余は世上一切の万物が各々其所を得て、存在の最小分子も亦た完全なる調和に帰着するに至るまでは決して自ら安住すること能わざるなり、
是れ即ち仏陀の取りたる態度なり、而して吾人彼れの謙遜なる弟子たる者は亦同じく此心を以て彼れの跡を追わざる可らず、
果して然らば吾人は何故に戦争をなす乎、
曰く他なし、是れ吾人が当然あり得べき状態に於て此世界を発見せざるが故のみ、現世は未だ無数の愚昧なる生物を有し、無数の誤謬なる思想を有し、無数の昏迷せる心情を有す、是れ皆な無明の妄相に帰因する者なり、是が故に仏教徒は決して此等の無明の産物を排除するを怠る能わず、而も此戦争は如何に惨憺たるものあるも辞すべきにあらず、吾人は何等の容赦をも為す可らず、即ち人生災厄の根底を破壊するに何等の慈悲も存するなし、此目的を成就せんが為めに、吾人は断じて自己の生命を犠牲に供するを恐れざるべし、』云々
斯くて論者は論歩を進めて、犠牲と慈悲とに関する曖昧なる議論、輪廻の説其他の混雑なる教理を並べ、以て喋々仏陀の所謂る「殺す勿れ」てふ単純明瞭なる誡律の真意を晦[くら]まさんと努めり、彼れ又曰く
『悪者を打たんとする両手、之を狙わんとする両眼、是れ決して一箇人間の所有にあらす、無常迅速の存在界以上なる高き実在界の大道によりて利用せらるる器具たるに過きさるなり』と、
  千九百四年五月『オープン、コールト』誌上、釈宗演氏
  『仏教徒の戦争観』

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春秋社版の訳

(底本のページ割でp57。露文からの訳と考えられ、上に書いたように、却って条件的に不利になっています。それは措いても次のことを念頭においていただければと。
訳文中のカッコの付け方に違和感がありますが、元のままにしています。これは露文の「原註」の時点で既に何か変な感じで、引用文とコメント部分の区分けが分かりづらくなっています。恐らくそのためでしょうが、本訳文も意味が取りづらい感じになっています。)

 教典に曰く「三界は我に在り。万物はそのうちにありて、我が子なり……そは総て我が「我」の分身なり。故に実在の最小部もその天賦を果さざる限りは、我は安んずるを得ず……』と。
 仏陀の世に対する此関係は、我等その衣鉢を継ぐ者の、承継せざるを得ないところである。
 然らば我等は何故に闘うか?
 如何となれば世に、有るべきが如くあらざるが故、無智なる主観の結果人間の悖戻、盧偽の思想心意の愚用の在るが故である。故に仏徒は決して一切の野蛮と闘うことを罷めない。そして戦争は苦い終局まで続けられる。彼等は決して容赦しない。彼等は、生の不幸の出づる根本を滅ぼす。
 之を達成するが為めには、彼等は自分の生命を惜まぬ。
 更に我等の克己、温和に関する錯雑せる論、輪廻其他に就ては、皆之単に、殺す勿れという仏陀の彼の簡単明白な教訓を覆うものである。
 なお曰う「打たんと振り上げた手、狙いをつけた眼は個人の物ではない、変転を超越せる主宰の用ゆる武器である云々」(The open Court’' May.1904 Budkhist Views of War. The Right Rev, SoyenShaku)

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《補足》
"The Open Court"の「Vol. 1904, Iss. 12」にも、「南山の戦い」に関する釈宗演の文章があるのを(たまたま)見つけました。同号には、また、トルストイ論文の簡単な紹介も載っていました。
他にも、ちゃんと探せば関連の記事が載っているのかもしれません。

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興味深い情報などを見つけたら、またここに何か書き足すことがあるかもしれません。