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「戦前」の日本人にとって「シベリア鉄道」とは「東清鉄道」のことだった

タイトルが少々大袈裟なのは分かっておりますが。
あえてキャッチー(?)な書き方にしてみました(^_^;)。

この題で私がお伝えしたいニュアンスは、以下の文章をお読みいただければ恐らく読み取っていただけるものと思います。



東清鉄道とは〜雑談と概説


私はロシアの旅行が好きで、当然「シベリア鉄道」の旅にも興味があります。

一方、それと同じか、それ以上に「東清鉄道」、あるいは戦前の「欧亜連絡運輸」についても興味があり。前から何か書きたい気はしていました。

そんな昨今。『国立国会図書館デジタルコレクション』を見ることに最近ちょっとハマったことと。
次の本(※)をたまたま見て「あちゃー」と思ったことから。
まとまりなくでもパラパラ書いて見ることにしました。

(※……こども向けの「日本の歴史」系まんが。私の日本史知識はこれ系に大きく頼っています^_^;)


次の画像を載せるのは学術的な(?)「適切な引用」に当てはまると思うので、問題ないかと。

このシリーズは話を分かりやすくダイジェスト気味に進めている割に、重要な出来事はよく押さえていて、まとめ方がうまいと思うのですけど。時々「あれっ」というポカが出るっぽいです。13巻でも、奉天を「現在の遼寧市」としているなど。

上の画像で赤丸をつけたところ(シベリア鉄道「アムール線」区間)が開通するのは1916年。日露戦争が終わっただいぶ後のこと。
と言いますか、既に第一次世界大戦が始まって数年。翌年にはロシア革命が起こるという時期のことです。

ここで、タイトルにつながるのですが。
日露戦争(1904年2月〜1905年9月)当時の極東におけるシベリア鉄道とは、「東清鉄道」のことなのです。

Wikipedia より。中国語で分かりづらいかもしれませんが……。青で囲った路線に注目。左上の赤塔(チタ)から右下、海参崴(ウラジオストク)まで伸びるのが東清鉄道。その途中の哈尔滨(ハルビン)から下方の大连(大連)へと伸びるのが南満州支線。くどいようですが、赤丸をつけた路線(今日の我々が普通にイメージする「シベリア鉄道」)は1916年まで未開通です。
これもWikipedia より。1903年の路線図とのこと。

次の記事内の地図が一番分かりやすいかも。

以下の開通年度などのデータは主に「シベリア鉄道9300キロ」蔵前仁一、旅行人/「ロシアの鉄道」秋山芳弘、旺文社;などに依っています。その他 Wikipediaの記載なども参考にはしていますが、資料によって微妙にくい違うこともあるので、「概ねこんな感じ」ということで。

シベリア鉄道の建設を進めるうち、上記の「アムール線」区間の工事の困難さから、完成まで時間がかかることが明らかになってきます。そんな中、ロシアは日清戦争後の清国の窮状を利用して、清国内にシベリア鉄道の短絡線を敷くことを了承させます。それが「東清鉄道」です。

東清鉄道単独で見た場合の開通は1902年。その東西がロシア領側の路線とつながったのが1903年(資料によっては、大興安嶺トンネルの完成によって1904年2月に開通とも)。
なお、ウラジオストク〜ハバロフスク間の路線(「ウスリー線」区間)の開通はそれに先立つ1897年。

以上でロシアの首都(当時はサンクトペテルブルク)と、そこからは遥か遠い極東(ウラジオストクやハバロフスク、あるいは大連・旅順=後述)がほぼ鉄道で結ばれます。

ただ、日露戦争開戦時(1904年2月)には、バイカル湖南岸の区間(バイカル湖迂回線)だけまだ未成でした。
が、それも1904年9月には開通します。かくして、「シベリア鉄道(≒東清鉄道)」経由で物資や人員を続々送り込んでくるロシア軍と、日本軍は戦うことになるわけです。


さらに、後で述べる欧亜連絡のことにも関係するので先に触れておきますが。

東清鉄道中の重要分岐点であるハルビン(哈爾浜)から遼東半島の大連・旅順方面へ伸びる「東清鉄道南満洲支線」も1903年に開通します。
(この南満洲支線のうち、長春以南の区間が、のちの南満州鉄道株式会社=「満鉄」の路線となります。)

日露戦争で戦場となった場所をよくよく見ると、その多くはこの南満洲支線の沿線であることが分かります。
なんでそんなことになったのかというと。当時のロシアはこの路線をテコに満洲における自国勢力・権益の地歩固めをしようとしていたので。必然的にロシア軍が軍事拠点を構えたりするのも、その周辺になることが多かったでしょう(兵站の面からも、当然、鉄道沿線が好まれたはず)。
従って、それを攻める日本軍もまた必然的にこの路線一帯で行動することが多くなった。……ということなのかなと思います。

(※日露戦争とシベリア鉄道の関係をさらにお知りになりたい方は次の論文など──たまたまネットで見つけたのですが──お読みになると良いかも。1981〜83年のものらしく、ひょっとしたら内容的に古くなってるかもですが。広瀬健夫「日露戦争期のシベリア鉄道小考」 その一 その二


と、日露戦争関係関連の話はこのへんにして。

その後の東清鉄道(南満洲支線も含め)が辿った数奇の歴史のあれこれを今回は飛ばし。
(この路線は近現代の東アジアの歴史を語るうえでの、一つの大きな軸ですらあると思うのですが。)

欧亜連絡とかの旅人的ロマンの話も、その多くは飛ばして。
(この辺の話は、そこそこネット記事もヒットするということもあり。)

この記事の残りは、この路線に関わる旅行記や旅行資料をただ羅列するだけの記事にしようかと考えます。

ひっぱり元は主に、「青空文庫」や「国立国会図書館デジタルコレクション」(以下、「デジコレ」)。気分次第で、両方のリンクを貼ることもあるかと。
また「デジコレ」については、閲覧にアカウントが必要な資料も、必要ない資料もありますが、基本的には構わず混ぜていくつもり。
「デジコレ」のアカウント登録については、私の次の記事の途中で触れているので、適宜参考にしてください。

(以下は、半ば工事中ということでお願いします。)

東清鉄道(とシベリア鉄道)に関する紀行・資料まとめ


旅行者にとって一種のロマンである「戦前」の欧亜連絡ルートについては、以下のようなネット記事(と、記事中の地図)を見ていただくのが手っ取り早いかもしれません。

今でいう「普通のシベリア鉄道ルート」が却って載っていなかったりするのですが、そちらのルートを選ぶ場合もやはりあったようです(ハバロフスクを経由しているなら、そっちのルートだと見分けがつきます。ハルビンや満洲里が出てくるなら東清鉄道経由)。

ただ、とりわけ「満洲国」の存在した時代など、満洲里までは国内旅行に準ずるような感覚で行けたようです。つまり東清鉄道経由の場合は「準国内」区間が長く、その分、心理的なハードルが下がったということはあるかと。

* * * * *
以下は、次のようなレファレンス類も参考にしつつ……。


◎南満州鉄道関連旅行


「満鉄」などで旧「東清鉄道南満洲支線」に相当する区間に乗った旅行記録など。

※数が多そうなので、特に重要そうであったり、私の目に面白いものに絞るつもり。

川村湊「満洲鉄道まぼろし旅行
これは1998年の本で(文庫版2002年)、作品そのものへのリンクではありませんが。私を大いにこの方面に啓発してくれた本なので、最初に掲げておきます。

夏目漱石(金之助)「漱石近什四篇」(「満韓ところどころ」収載)
デジコレ

夏目漱石「満韓ところどころ
青空文庫
冒頭の一文から、上のデジコレ版と「だあな」「だなあ」で食い違いがあったりします。どちらが正しいのか? なお、この旅行は後述の二葉亭四迷の帰国、伊藤博文のハルビン行きと同年のことです。

・「漱石全集 第11巻 (日記及断片)」も参考までに(デジコレ)。499ページから関係箇所。

・ここで伊藤博文についても触れなくてはならないでしょう。
同氏がハルビン駅で銃殺されたことは誰もが学校で習いますが、行程に着目すると、また別のことが見えてくるかも。以下はデジコレの「伊藤博文伝」に全面的に依ることにします。
同書862ページには「予は満洲に遊びたる事なし。多少因縁ある遼東半島にも未だ足跡を印せず。故に一たびは彼所に行かんとの宿志あり。」云々、という同氏の言葉が引かれていて、これは頭の隅に留めておく価値があるかも。
そして864ページ以下からの記述によって、氏の満洲行きの行程の詳細を追うことができます。
──1909年(明治42年)10月14日に大磯を出発(こちらからでしょうか?)。偶然ながら、これはちょうど上記の漱石が釜山からの船で下関に帰国したのと同日。漱石はこの14日、「春帆楼を遠くに望」んでいます。伊藤博文はというと、15日に春帆楼に宿泊(ここは日清戦争の談判場となったところ。伊藤氏とは縁の深い場所で、そもそも立ち上げから関係しており、「春帆楼」のネーミングも同氏によるものとのこと)。
16日に門司から乗船、大連に18日着(乗ったのは漱石と同じ鉄嶺丸ですが、乗船地は違うようで、漱石は神戸から乗っています。なお、この鉄嶺丸は後に悲劇的な沈没事故を起こしたことでも知られるようです。)
その後、(旅順を含む)満鉄線の沿線を順次見て回り、10月26日午前9時にハルビン駅に到着。しかし、そこで(昔風に言うならば)「遭難」することになるのです。
(ここでもう一つ、漱石の「韓満所感」。あと、本記事最後の「註釈」もご覧ください。)

与謝野寛, 与謝野晶子 著「満蒙遊記
青空文庫  デジコレ
ちょうど張作霖爆殺事件の前後にその方面の旅行をしていたという、今の目からは大変貴重な記録。「奉天に著く」の章あたり。

・二葉亭四迷
この人に関してはとりわけ不勉強です。
1902年(明治35年)にはハルビンで働いたということで、内田魯庵「明治の作家」170ページあたりから、そうした話が。「此の西比利亞行に就ては色々な説がある」云々……。ここで言う「シベリア」とはハルビンの意味でしょう。172ページあたり、東清鉄道などを使って北京に向かったようにも読めますが、当時既に部分開業くらいしていたのか?
この人のペテルブルク行きについては別途下に。

・「朝日新聞満韓巡遊船」及び「ろせった丸満韓巡遊紀念写真帖
当時話題になった企画らしいです。

(複数著者)「漫画の満洲

・「南満洲鉄道旅行案内
たいへん内容の充実した資料集

・「懐かしの満洲鉄道 : 写真集
「満鉄」=「南満州鉄道株式会社」時代の貴重な写真多数。叙述は少し思い入れが勝ちすぎる感も。


なお、ごく個人的な見立てとして。英国にとっての「中国への窓/対中国の拠点」がまず香港であったとするなら。ロシアにとってはハルビン、日本にとっては大連がそれに相当するものだったように私には思われます。今では町並みとかにその名残りを感じるぐらいですが。


◎シベリア鉄道紀行(文人編)


シベリア鉄道旅行をしている戦前の旅行記などのうち
・行程が「東清鉄道」の範囲を超えていて
・著者が「文人」「文化人」「歴史的に著名な人士」だったりするもの
……をここに。

・二葉亭四迷
先と同じく内田魯庵の「明治の作家」に依って。彼は1908年(明治41年)に、朝日新聞社の通信員としてロシアの首都(当時はペテルブルク)に赴きます。195ページからの記載を見ると、神戸から船で大連へ(これは二葉亭自身の「入露記」にも記載あり。乗ったのは「神戸丸」)。その後ハルビンに。あとは東清鉄道〜シベリア鉄道経由でしょう。
しかしペテルブルク滞在中に「不起の病に取憑かれ」急遽帰国となります。シベリア鉄道経由が良いか船便が良いかの検討の末、船での帰国を選択(p200〜)。しかしインド洋上で息を引き取るのです。
(補足:宮永孝氏「サンクト・ペテルブルグの二葉亭四迷」という論文を見つけました。二葉亭の足取りの細かい調査。なお、これで気づいたのですが、二葉亭のロシア行きのきっかけとなった「ダンチェンコ」氏というのは、モスクワ芸術座の立ち上げで有名な「ネミロヴィチ=ダンチェンコ」とは別人なのですね。勘違いしてました。)

徳冨蘆花(徳富健次郎)「順礼紀行
デジコレ
(参考までに、この新聞記事には徳冨蘆花・徳富蘇峰の劇的な和解の話と、秋田雨雀のロシア行きの話が載っています。ついでながら、蘇峰もロシアでトルストイに会っていますが、これは船での欧州経由だった模様。)

吉屋信子「異国点景
デジコレ
奉天=現・瀋陽で張学良と会っているのは、なかなか貴重な体験では。トータルの旅程については225ページあたりにまとまっています。なお、吉屋氏は戦時中にも満洲方面で国策的ルポルタージュをしているようですが、そちらは見つけられず。

与謝野寛, 与謝野晶子「巴里より」(与謝野晶子「巴里まで」収載)
デジコレ

与謝野晶子「巴里まで
青空文庫

林芙美子「三等旅行記」(「西比利亜の三等列車」「巴里まで晴天」ほか収載)
デジコレ

青空文庫に入っている林芙美子の関連作品は「シベリヤの三等列車」のみの様子。

荒畑寒村「寒村自伝
デジコレ
308ページあたりにも満鉄線がらみの話がちょっと出てきますが。後編第2章〜7章の訪ソの話が何と言っても大ボリューム。1923年=大正12年。
「危険人物」としてマークされている身ということで、かなり変則的なルート。端的に言えば行きは長崎〜上海〜天津〜奉天(瀋陽)〜ハルビン〜東清鉄道・シベリア鉄道。帰りはハバロフスク経由でウラジオストクまで。そこから船で上海〜長崎という感じ。
なお、寒村は帰国前にウラジオストク郊外(セダンカという所だそう。同名の小駅があるので、恐らくその辺り)で関東大震災の報を聞いています。この頃日本では大杉栄、伊藤野枝、大杉の甥でまだ6歳の橘宗一が甘粕正彦らに殺害される「甘粕事件」が起こります。甘粕正彦はやがて「満洲国」で影響力を持ち、後には映画「ラストエンペラー」で満洲国の影の支配者として描かれることになります。

「宮本百合子全集 第6巻 (ソヴエト紀行)」(「新しきシベリアを横切る」収載)
デジコレ

宮本百合子「新しきシベリアを横切る
青空文庫
ハバロフスクという語が出てくるので、これは「普通の」シベリア鉄道経由でしょう。

・「プロコフィエフ自伝・評論」(デジコレ)
経由が東清鉄道か「普通の」シベリア鉄道かこの本だけでは判断できませんが。彼の日記も公刊されているので、それを読めば分かるのでしょうね。
(補足:日記の内容を紹介している次のブログによるとハバロフスク回りだったようです。)

* * * * *

山田耕筰はデジコレに見られる限りでも、シベリア鉄道に3回は乗っています。恐らくはもっと。

・「作曲者の言葉」132pには1910年の渡独途中のシベリア鉄道のことがチラリと。ウラジオストクからの東清鉄道経由と思われます。退屈だったようです(^_^;)。

・「はるかなり青春のしらべ : 自伝」には、この渡独の詳しいいきさつと、1913年12月の帰国時の話が。帰路のシベリア鉄道については 302pあたりから大変細かい描写があり、少なくとも「印象的」ではあった模様。ハルビン〜釜山〜下関のルートを辿ったようです。

・「耕筰随筆集」には複数回の訪欧の話が(「耕筰楽話」にも一部同じ話が収録されています)。
まず1931年のパリ訪問の話が 319pあたりから。
336pに「私が最初ソヴィエイトを訪問したのは、一九三一年の二月だった。」とあります。前回シベリア鉄道に乗ったのはロシア革命(1917年)前、つまり「ソヴィエト政権」の成立前だったので、こういう書き方なのでしょう。この時の行きは1931年2月、ハルビン・満洲里経由。
パリ訪問後にはソ連領内の各地も巡っていて楽しい旅行だった様子なのですが……(378p以降)。それを同書では1932年のこととして記載しています。ただ、同氏の年譜などと対照するに、これは1931年の誤りではないかと思われます(もし違っていたら申し訳ありません)。帰途はモスクワを8月に発ったようですが、細かい経由はこの本からは不明。

1933年にはソ連訪問の旅(340p 〜)。
407ページあたりからの記述を読めば、旧ソ連の誇るキラ星のごとき錚々たる作曲家・文化人に多数会っていることが見て取れます。若き日のショスタコーヴィチと会ったのもこの時でしょうか(上記「耕筰楽話」巻頭写真)。
この時の往路はウラジオストクからハバロフスク経由の「普通の」シベリア鉄道。帰路の経由はこの本からは不明。

その他、この方の年譜では1936年にレジオン・ドヌール勲章を受賞、1937年にベルリン・フィルを指揮などとあり、少なくとも後者については渡独していますが(四度目の訪独とのこと)、経路等の詳細は未確認です。

* * * * *

ここで毛色は大きく変わって松岡洋右氏。
この人は満鉄総裁にまでなっていますから、当然に満鉄には数え切れないほど乗っているでしょうし。
シベリア鉄道に乗ったことも一度や二度ではないかもしれませんが……。

(1)まず、国際連盟脱退で有名(?)な渡欧について。
世紀の英雄松岡洋右 増補改訂版」という本によると、松岡氏本人による「ジュネーヴに旅して」という紀行文的な文章があるようですが未見です。ただ、その中に「ウスリー線に乗る」という小見出しがあるらしいので、ハバロフスク経由か?

(補足:「連盟に使して」という当時の新聞記事がネットに見つかりました。上記書籍が紹介する「ジュネーヴに旅して」とは見出しなどが異なりますが、大略同内容と思われます。「ジュネーヴ〜」は、他の新聞か雑誌に載った同種の記事か、ひょっとしたら、この記事に加筆修正したバージョンとかかも? なお、この記事をスマホのブラウザで見る場合、表示設定を「PC版サイト」にしないとうまく画像表示されない感じです。)

当時の新聞には(昭和7年10月22日づけ朝日新聞)「一行は二十二日午後二時天草丸で敦賀発シベリア経由ジュネーヴに急行する」などとあります。正確な経路はともかく(広い意味での)「シベリア鉄道経由」だったことは確かです。往路では、モスクワで会談などもあったようです。なお、天草丸は敦賀〜ウラジオストクを結ぶ船で、元は日露戦争の戦利品。
その後、国際連盟での駆け引きがありますが、結局は有名な「総会からの退場」へと至ります。昭和8年2月24日。

その後、ジュネーヴからパリに「引揚げ」。行程的に少し飛びますが、この新聞紙面によるとニューヨークに同年3月24日着。
(英国から「巨船レヴィアザン号」で移動……恐らくこちらの船)。
その後の予定としては、米国内を横断しつつ日本の立場を訴え、4月13日正午サンフランシスコ出帆の「浅間丸」で帰国の途につく……というように書かれています。これは概ねこの通りに運んだもののようです。帰国は4月27日
(参考:内藤初穂「狂気の海 : 太平洋の女王浅間丸の生涯」)
この帰国時にもシベリア鉄道を使ったとの資料を散見するのですが(宮脇俊三「シベリア鉄道9400キロ」など)、これは往路とごっちゃにしたか、あるいは下に書く別の渡欧とごっちゃにしたかではないかと思います。

(2)昭和15年に外務大臣となった同氏は、翌16年に有名な渡欧を行っています。以下は「松岡外相演説集」の156p、「満洲里に於ける声明」などを参考として。

この時の訪欧は、下の動画によれば、天候不良のため空路を取りやめ大阪駅から陸路で。昭和16年3月14日。細かい経路は未確認ですが、基本的には東清鉄道〜シベリア鉄道でしょう。3月21日づけの新聞記事には、「十八日午前七時チタ駅に到着」「十九日朝イルクーツクに着いた、モスクワ着は廿三日の予定」などの文字が。

欧州ではドイツなどを歴訪、

その帰路、同年4月13日にモスクワで「日ソ中立条約」を調印。

シベリア鉄道で帰国の途につきます。
(その際、異例なことにスターリンが駅まで見送りに来たという逸話があります)。
そして4月20日に満洲里でこの声明を出した、という流れ(つまり、ここまでは東清鉄道経由)。
その後さらに東清鉄道等を経由して大連に移動したかというと……。ネット記事にはハイラルから大連まで陸軍機で飛んだと記載しているものも(これは一応、未確認ということで)。
ともあれ行程の最後は、当時の新聞によると4月22日に大連から東京・立川飛行場まで飛んでの帰国です。
ここまで参考のNHKアーカイブス

川上俊彦「労農露国
いきなり時代が遡ってすみません。この本はたまたま見つけたものです。巻末の「入露記」が紀行文として「普通に面白い」のですが、この本全体が「ネップ期」のソビエト・ロシアを実に生き生きと、かつ公平に叙述している好著だと思います。
この方のことを全く知らずに名前を検索したら、日露戦争でステッセルとの会見の通訳をしていたり、伊藤博文「遭難」に巻き込まれていたりと、とんでもない経歴の外交官! 恐れ入りました。


ある程度書いたあとで、なかなかすごい本を見つけてしまいました。
世界紀行文学全集 第10巻 (ロシア・ソヴェト編)」 修道社、1960年

中にはシベリア鉄道を使っていない人もいるでしょうが、「使っていそうな」文人をピックアップするには十分でしょう。
というわけで、この項はもうこれくらいでいいかなぁと(^_^;)。


ここまでお読みになった方の中には、ひょっとして、
「いつか、◯◯さんと同じ行程で旅をしたいと思っていたけど。よく見たらシベリア鉄道というより東清鉄道経由だったみたい。今日でも乗れるのかな。」
……などと思われる方もいるかも?
中国やロシアの鉄道旅行のtipsなどはとてもこの記事では扱えませんが。参考になりそうな時刻表サンプルを少々ご紹介(クリックでサイズの大きい画像がでます)。

大連〜ハルビン。大連から満洲里まで直通する2623などという列車も載っています。
K19は北京から、かつての京奉線と東清鉄道を通り、さらにシベリア鉄道経由でモスクワへと向かう、中露の鉄道史そのものを辿るような列車。チタ─満洲里間にはそれ以外の列車もあります。

上の時刻表は「中国鉄道時刻研究会」のサイト(オススメ!)からダウンロードできるサンプルページです(転載も可と)。

・画面左上の「Menus」(横三本線マーク)→「vol.4 2018-19冬 」→「時刻表、巻頭巻末解説サンプル」(上)。同様に「vol.12 2023秋冬」→「時刻表サンプル」(下)。

◎欧亜連絡旅行


その他、シベリア鉄道関連の旅行記・旅行資料、「欧亜連絡」のロマンを感じさせる資料などをこちらに。

鉄道汽船旅行案内 第6巻 第3号(明治45年3月)
国内〜「外地」の時刻表その他が載っていて興味深いです。今の目からはちょっと読みづらいですが。
ほぼ同時期の同案内が他に3冊見つかるのでまとめて下に。
同、第6巻 第4号(明治45年4月)
同、第6巻 第6号(明治45年6月)
同、第6巻第12号(大正元年11月)

さらに参考までに。次の書籍の202ページ以降に東海道線時刻表の年代順サンプル、所要時間や運賃の変遷表などが載っています。最広義の「欧亜連絡」資料として(^_^;)。
全国鉄道と時刻表 4 (東海道・山陽) (汽車旅行歴史シリーズ)

・「西比利亜鉄道旅行案内
明治44年=1911年の書物のようなので、当然に東清鉄道経由の内容

ハーモン・タッパー著/鈴木主税訳「大いなる海へ : シベリヤ鉄道建設史

・ドイツの有名な旅行ガイド「ベデカー」の1912年版「ロシア」がネットでダウンロード可能。
紹介記事
↑文章中ほどの「Link Digitized Volume」で遷移した先で(イタリアの図書館サイトっぽいですね)ダウンロードできます。

といってもこれはドイツ語なので、私は正直もて余すのですが(^_^;)。

次のものはその英訳のようです(1914年)。

これなら私にも分かりますし。革命前のロシアの旅行事情とか、東清鉄道の様子などが分かるのは実に貴重です。

この時点(1912年)では「アムール線」区間がまだ未開通なので、当然ながら東清鉄道経由でウラジオストクや旅順(Port Arthur)、北京に行くような記載になっています。
(ハバロフスクへは蒸気船を使うか、ウラジオストクから鉄道で!)

Guide to the Great Siberian Railway
シベリア鉄道の公式ガイドブックというようなものらしいです。英語。1900年の出版ということで、路線はシベリアの途中まで。欧亜連絡でも何でもありませんが、貴重な資料だと思うので。

◎戦後(おまけ)


補足的に。前掲の「シベリア鉄道9300キロ」(蔵前仁一)によると、1964年の海外旅行自由化の後、シベリア鉄道経由でヨーロッパへ渡ろうとする若者たちが現れたとのこと。ただ、「当時の日本人旅行者にとってシベリア鉄道とは、現実的にはナホトカ・ハバロフスク間のことだった(同書105ページ)」。というのも、この場合、ハバロフスクからモスクワまでは飛行機で移動するからです。
(なお、ナホトカはウラジオストクに割合近い別の港町。ウラジオストクは軍港のため、この当時は外国人の立ち入りができず、日本からのフェリーは横浜〜ナホトカ間で運行されていたのでした。)
そういう時代の話ぐらいまで。

蜷川譲「世界旅行あなたの番
「外務省に共産圏旅行許可申請書を出して旅券を受けてから」などとあるのが私には驚きです(35ページ)。
とは言え、思えば私の初ヨーロッパ旅行の際(1987年)、パスポート申請に必要な書類一式の中に「渡航費用の支払い能力を証明する書類」とかいうのも入ってました。これだって今の目からは十分な驚きでしょうね。
(残高がそれなりにある預金通帳のコピーなどを提出。まぁこの当時とっくに形骸化していたとは思います)。

ちなみにこの本は貧乏旅行の指南書のはずなのに、パスポート申請は旅行代理店にやってもらうような感じで書いてあります(30ページ)。そういうのもいろいろ面倒くさい時代だったのか?
……どうもシベリア鉄道とはあまり関係のない話になってしまいました。

・水野良太郎「ドンと行けヨーロッパ : マンガ家見て歩き

・蜷川譲 編著「世界旅行時刻表 : 日本↔ヨーロッパ列車ダイヤ
本文が1970年、時刻表は改定していて1974年頃のもののよう。ここまで来るとだいぶ(私の中での)現代に近づいて来た感があります。ヨーロッパには格安航空券で行くのが普通という時代もそろそろ? 話飛んで1987年、私が初めてヨーロッパ旅行した時はマレーシア航空の「南まわり便」で、往復15万円そこらだったと思います──念のために書くと、物価は現在とそうめちゃくちゃな差はなく、ここのデータによると、2015年を100とした場合の消費者物価指数は85.9。……話戻しまして、シベリア鉄道を含む当時のヨーロッパ鉄道時刻表がたくさん載っているのは今日の読者にとっても便利。巻末に時刻表の索引あり。


註釈、その他


※トップ画像はかつてのハルビン駅の写真(Wikipediaより)。キャプションには1940年頃とあるのですが(つまり「満洲国」時代も終わりに近い頃)、極めて疑わしいと思います。馬車の感じなどから見て、その何十年か前ではないかと。
なお、現在のハルビン駅は何代目かですが、あえてこのデザインをそのまま取り入れています。

※本文中でも触れましたが、ハルビン駅は伊藤博文が銃殺されたことでも知られる場所。今では駅に関連の博物館が併設されています。殺害犯の安重根もやはり東清鉄道を用いてハルビンまで赴いたようですが、本記事では特に掘り下げないでおきます。彼は後に旅順の監獄で処刑されますが、そこも一種の観光地となっています。

※東清鉄道は時期によっては「中東鉄道」だったり、他にもいろいろな呼ばれ方があるのですが。本記事では面倒なので全部「東清鉄道」で通します。

※ここまで書いていませんでしたが、シベリア鉄道や(旧)東清鉄道(にあたる区間)には、私は部分的にのみ乗っています。でも、その話を書く機会は当分なさそうな気がします。
ついでながら、今日では旧東清鉄道は(南満洲支線にあたる区間も含め)かなりの部分が高速鉄道化されています(いわゆる中国版新幹線)。
日本で言えば、東海道線と東海道新幹線のような感じで、在来線、新幹線、どちらも使われています。
厳密にマニア的に言うなら、(並行してはいても)高速鉄道に乗った場合は「旧・東清鉄道」に乗ったとは言えないのかも??

※YouTube で見つけた次の方の旅行動画は、「ベスト」とまでは言えないかもしれませんが(失礼^_^;)。(旧)東清鉄道沿線の「今日的な」鉄道旅の雰囲気を味わえるのではと思い、ご紹介します。中国語。音量やや注意。
(1)
ロシアとの国境の街である綏芬河(すいふんが/スイフェンフー)から哈爾浜(ハルビン)まで。
綏芬河駅はロシア時代の名称「ポグラニーチナヤ(Пограничная)」駅で、日本では「ポクラ」などと呼ばれることもあったようです。
3:35あたりでハルビン駅に到着。5:45あたりで駅の外観が映ります(これは北口ですが、賑やかなのはむしろ南口)。

(2)瀋陽(沈阳/シェンヤン)から大連(大连/ターリェン)まで。
瀋陽は奉天とかムクデン(Mukden)とかの別称があって、古い資料を読む際には注意が必要。東駅舎は満鉄時代の面影を残していますが、この動画の冒頭で映るのは新設の西駅舎でしょうか。こちらの駅舎もかつての「遼寧総駅」のデザインを取り入れているような気がしますが、本当に気のせいかも。
6:55あたりで大連駅に到着。7:30あたりで駅の外観が映ります。大連駅は満鉄時代そのままの外見です。上野駅に似ていると言われます。
余談ながら、中国の高速鉄道は従来の駅と新設の郊外駅、両方から発着するパターンが多いので(だいたい新駅の方が本数が多い)、実際の乗車を考える場合には発着駅にも注意する必要があります。


※最後に。別の中国人旅行者さんによる鉄道動画。英語字幕つき。中国の丹東(丹东/ダンドン)から北朝鮮の平壌までというレアなもの。動画中に映るスマホ画面から判断すると2018年7月28日に撮影したもののよう。
いつの日か──欧亜連絡とまではいかずとも──下関〜釜山〜ソウル〜平壌〜ハルビンぐらいの区間を、お気楽に、平和的に、楽しく鉄道旅できるようになってほしいと思わずにはおれません。そういう願望を込めて。
丹東は中朝国境の中国側の街。戦前の欧亜連絡などの史料では旧称の「安東」の名前で出てきます。紛らわしいですが、韓国の安東市とは全く別の場所です。