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27回曲がるだけ曲がって岡崎を出た話【歩いて目指せ日本橋7日目】


この記事は、江戸時代の旅人みたいな放浪の旅に出たいと思い立った人生どん詰まりの京都在住OLが、京都三条大橋から東京日本橋までを徒歩で旅しようと試みた18日間の記録です。


愛知長い!!!!!


【ルール】
①東海道上に設けられた53の宿場町を通り、京都三条大橋から東京日本橋を徒歩で旅する。
②通行止めなど余程の理由がない限り、「東海道」以外の道を歩くことは禁止。道を間違えた場合は、間違えた地点まで戻って歩き直す。
③移動手段は基本徒歩。徒歩で渡れない三重〜愛知間の移動のみ電車OK。
④各宿場町では、歌川広重の浮世絵集「東海道五十三次」と同じ構図で写真を撮る。 




【前回の記事】

三河国・知立宿

おはようございます

おはようございます。東海道の旅・7日目の朝です。今日は知立宿から、徳川家康の故郷・岡崎宿を通り、藤川宿まで歩きます。
コンディションが最悪です。前日、気温が高い中歩いてバテ気味だった癖にロング缶をがぶ飲みしてしまい、頭痛と吐き気がひどいです。日差しは強くないもののムワッとした天気のせいで余計に気分が悪いです。藁にもすがる想いで鎮痛剤を飲み、いざ神君家康の故郷へと向かいます。

京都から41里(160キロくらい)歩いたみたいです。思えば遠くへきたもんだ・・・
松並木


500m続く松並木を歩道橋から見下ろします。江戸時代、4月末から5月初にかけて、この辺りでは「馬市」が開かれていました。全国各地から集められた400~500頭もの馬たちが松並木沿いにつながれ、売り手の馬飼、買い手の馬喰、見物客に屋台にと大層賑わってたそうです。歌川広重も、馬市の様子を描いています。今のモーターショーのようなイメージですかね?
馬つながりでどうでもいい話ですが、私は子供の頃に乗馬体験をした際、目の前を蝶が横切りパニックになった馬から落馬してお尻を強打し、重度の内出血を患ったことがあります。手術には至らなかったのが不幸中の幸いでしたが、負傷後2ヶ月は家の中の十数歩の移動ですら耐えられませんでした。後遺症もなく、元気に京都から愛知まで歩けるようになって本当に良かったです。。。たまに大河ドラマなどで落馬シーンがあると、未だにゾワッとします。

さて、相変わらず二日酔いでグロッキーなのですが、知立で出来れば立ち寄りたいところがあったので、まだ体力があるうちに寄り道します。平安時代最強のモテ男・在原業平ゆかりの無量寿寺です。

在原業平の墓石

知立はなぜか在原業平ゆかりの場所が多く、何なら知立市の観光キャラクターは、在原業平がモデルの「なりひらくん」です。一方、在原業平は京都在住の貴族なので、知立に住んでいた/通りかかったという一次史料はなく、どうやら彼をモデルとしたといわれる「伊勢物語」にて、業平と思わしき主人公が、東国へ向かう途中に知立に立ち寄ったという記述があるそうです。ここ無量寿寺には在原業平の墓石までありました。


来迎寺一里塚 道の左右両方の一里塚が残っている珍しい一里塚です。
こんにちは・・・


地図上ではまだ岡崎市ではないはずなのですが、徐々に岡崎のゆるキャラ・オカザえもんが主張し始めました。2Dだとまだかわいいのに、3Dだと何であんなに怖いんですかね。。。

雲が・・・


画質が最悪ですが、「ようこそ 家康公と三河武士のふるさと岡崎へ」と書いてあります。空模様が若干気になりますが、なんとか岡崎市に突入しました!岡崎宿の入り口まではまだ少し先だそうなので、もう少し歩きます。

岡崎宿の西の入り口 矢作橋


徳川家康の故郷というのに、家康よりも前に豊臣秀吉が出迎えてくれました。右の男の子が秀吉で、その横にいる大男は、秀吉の家来の蜂須賀小六です。
今川家のお膝元・駿河を目指していた幼少期の秀吉は、この矢作橋の付近で野宿していたところを尾張のヤンキー・蜂須賀小六に蹴とばされ、「人の頭蹴るんじゃねえ!!謝れ!!」とブチ切れたそうです。小六はその度胸に惚れて仲間になったとか・・・。ただし、矢作橋が整備されたのは大分後で、蜂須賀小六がヤンキーという事実もなく、秀吉を立てるために作られた話という見方が今は主流だそうです。義経と弁慶しかり、東京卍リベンジャーズのマイキーとドラケンしかり、いつの時代も、日本人は「見かけよりも強い小柄な少年と大男」の最強コンビに夢を見ている節がありますね。私も大好きです。

いざ岡崎の中心へ!!!!


三河国・岡崎宿

徳川四天王(酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政)があしらわれた歩道橋がありました。さすが神君家康の故郷は気合の入りようが違います。


岡崎宿に入った瞬間八丁味噌が主張し始めました


岡崎は、家康が生まれた岡崎城に、八丁味噌、最近では東海オンエアなど歴史、食、エンタメ色々な面で見どころがあるそうなので、じっくりと観光したいのは山々なのですが、今回は全部諦めます。空模様が怪しいうえに相変わらずの二日酔いで食欲が皆無であることと、東海道を歩くというルール上(寄り道してもいいのですが後で痛い目に合います)、諦めざるを得ないのです・・・。大河ドラマ「どうする家康」のドラマ館訪問もかねて、今年中に岡崎リベンジする予定なので、その時じっくり観光します。。。
かわりに、岡崎にしかない東海道沿いのアクティビティを楽しみます。東海道一曲がりくねった道・二十七曲りです。

二十七曲り

岡崎は前述の通り、岡崎城を擁する城下町でもあります。町の心臓部である城が敵の手に落ちることはあってはなりません。某ねずみの国のようにエントランスから城まで最短直線距離でたどり着けるようでは命取りなので、城下町では、敵の進軍スピードを下げるために道に曲がり角を多く設けています。岡崎はその最たる例で、合計27もの曲がり角があります。勿論現代では他の道も舗装されていますが、ルール通りに東海道を通って岡崎宿を抜けるには、この27もの曲がり角をきっちり全部曲がらないといけません。しかも肝心の岡崎城にはたどり着けないルートなので、二十七回曲がるだけ曲がったら、宿場町から追い出されます。次は岡崎名物制覇するぞと固く誓い、岡崎を華麗に脱出していきます。普通の観光ではあり得ないプランで街ブラが出来るのは街道歩きの特権です。絶対普通に街ブラする方が楽しいんですけども。

線が太いので見にくいですが27回曲がります


二十七曲りガチ勢に優しい岡崎
岡崎訪問の機会があればぜひ足元を見てください


各曲がり角には目印があるので助かりました。
実際に少し早歩きで歩いてみると、度々曲がり角で減速させられるので、確かにお城を守る観点では有効な仕掛けなんだろうなと素人ながらに思いました。ただ、如何せん平和な令和では、同時に「岡崎まで来て何してるんだろう・・・」と虚無感も襲ってきます。次は絶対岡崎城に行きます。

さて、味噌煮込みうどんも東海オンエアも岡崎城も全部スルーし、ひたすら角だけを曲がり続けて岡崎宿の東の外れまで辿り着きました。

大平一里塚
途中国道からそれた時に見つけたカカシが怖かった

次の宿場町・藤川宿までまだ6.6キロありますが、このあたりから雨が本降りになり始めました。雨の中歩いているせいか、蒸し暑さゆえの不快感はないものの、よりによって、ここからは国道1号線沿いを主に通るルートだったので、通過する車が上げる水飛沫で足元がずぶ濡れで気持ち悪いです。時間の経過もあって二日酔いは大分解消されたものの、別の意味でグロッキーになりながら、雨空の下歩き続けます。

三河国・藤川宿

地面の濡れぐらいで雨のひどさを察して下さい

何もない藤川宿の西の端まできました。国道から外れて、松並木が続く脇道に入っていきます。松並木があると、多少雨を凌げるので助かります。。。

岡崎市福岡町、西尾市、吉幡豆郡吉良町に向かう「吉良道」と、東海道の分岐点

国道から一本横へそれただけでかなり静かになりました。ついでにようやく雨も弱まってきました。国道歩いてる時に止んでほしかったな!!


本陣(要人用ホテル)の立派な石垣が残っています。
本陣跡
歌川広重の絵にも描かれた東棒鼻(宿場町の東側の入口)。雨すっかり止みました。おそいわ!


 
さて、最後の最後で雨も止んだので、最後に藤川宿から少し前に進んだところにあるお寺にお参りして、今回の旅を締めくくりたいと思います。「法蔵寺」です。

法蔵寺


徳川家康が幼少期に手習いに励んだと伝わる寺です。硯箱や机など、家康が実際に使ったとされる品々が残っています。家康が住んでいた岡崎の中心部からはまあまあ距離があるので、泊まりがけで来ていたのでしょうか?実際に歩いてみると、何かとこういう所が気になります。

家康もつかったおてならい井戸

また、家康が武田信玄に大敗を喫した三方ヶ原の戦いの戦死者のお墓もあり、家康の身代わりとなり討死した夏目広次のお墓もありました。夏目広次は、どうする家康での最期の描写が記憶に新しく、改めて振り返ってみると胸が痛くなりました。。。。


近藤さん・・・

さらに、ここ法蔵寺には新選組局長・近藤勇のものと伝わる首塚があります。近藤は、明治1年に東京で斬首された後、京都・三条大橋にてさらし首となりましたが、彼の首は仲間達によって京都の誓願寺に引き渡され、住職の転任に伴い、ここ法蔵寺に移ったそうです。近藤の首は塩漬け状態で京都まで運ばれたようですが、東京〜京都まで2週間は要する中で、首の保存状態はどれだけ保たれていたのかが気になります(塩漬けだったら長持ちするんですかね・・?)。

さて、今回の旅はここまでです。天候と体調(自己責任)に恵まれず、満身創痍で歩きましたが、最後に天気も晴れてアルコールも抜けたので、すっきりした気持ちで旅を終えられました。旅していたのはちょうど梅雨の時期だったのですが、迫る夏の炎天下の中歩くのは命に関わると思ったので、涼しくなるまで休止していました。次の記事からは、冬の景色とともに旅の様子をお伝えしていきます。更新頻度がどうしても落ちてしまうのですが、ぜひ読んでいただけると嬉しいです!

寧々

【おまけ】歌川広重の浮世絵と同じ構図で宿場町の写真を撮るシリーズ

知立宿 馬市
岡崎宿 矢作橋
藤川宿 棒鼻
近藤勇に限らず、東国で討ち取られた罪人の首を持って京都まで旅した人たちが沢山いらっしゃったんでしょうね・・・果てしない・・・

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