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おしゃぶり用途の焼肉って何?【歩いて目指せ日本橋16日目】

この記事は、江戸時代の旅人みたいな放浪の旅に出たかった人生どん詰まりの京都在住OLが、京都三条大橋から東京日本橋までを徒歩で旅した18日間の記録です。
【ルール】

①東海道上に設けられた53の宿場町を通り、京都三条大橋から東京日本橋を徒歩で旅する。
②通行止めなど余程の理由がない限り、「東海道」以外の道を歩くことは禁止。道を間違えた場合は、間違えた地点まで戻って歩き直す。
③移動手段は基本徒歩。徒歩で渡れない三重〜愛知間の移動のみ電車OK。
④各宿場町では、歌川広重の浮世絵集「東海道五十三次」と同じ構図で写真を撮る。


【前回の記事】

相模国・小田原宿(神奈川県小田原市)

おはようございます。ここは相模国・小田原宿です。痛い冷たいしんどい以外の概念をシャットアウトする箱根の呪いのせいで昨日の記憶はおぼろげなのですが、朝起きてみると見事に足が筋肉痛で、確かに昨日箱根を越えたのだと実感しました。よりによってこんな日に泊まったのがドミトリーの宿だったので、宿自体は快適だったものの、ストレッチを十分にできるだけのスペースはなく、まだ昨日の疲れが足に大分残っています。
もう今日はのんびり小田原で1日観光でもしたいところですが、ジャージしか持ち合わせていのにOLの優雅な小田原観光なんぞできる訳がないので、大人しく東へと歩きます。

小田原城


旅の初めに小田原城に立ち寄りました。快晴だった昨日から一転し、パッとしない天気なのが気になります。
小田原宿は江戸側から見て東海道最初の城下町だそうなので、京都から旅してきた私にとってはこれが東海道の旅で見る最後のお城となります。小田原は元々は戦国時代に関東に覇を唱えた後北条氏の本拠地でしたが、豊臣秀吉の小田原征伐の後は徳川家康の家臣・大久保忠世が治め、その後諸事情で藩主がコロコロと替わったのち、再び大久保氏が代々治めるようになりました。この後北条→大久保→色々あって→また大久保 の変遷の中で城の姿は何度も変わり、その後も明治の取り壊し、関東大震災で江戸当時の城は完全になくなってしまいました。今目の前にある小田原城は、戦後に復元されたものだそうです。

片岡本陣跡

小田原焼肉ジャン

なにこれ??


道中みつけて思わず「何これ??」と声に出た焼肉屋さんの看板です。何かの隠語かと勘ぐりましたが、おしゃぶり用途=小さなお子様連れでもOKとの意味だそうです。私は心が汚いOLです。
あとから調べてみたら、ナニコレ珍百景でも特集されていたらしいです。人間驚いたら本当に「何これ?」と言うものなんですね。。

酒匂川

さかわがわ


酒の匂い川ではなく「さかわがわ」と読みます。一説には源頼朝がこの川を渡った際に「なんか酒臭くない?」と言ったことに由来する名前とのことです。近所の酒造家が捨てたお酒のもろみの匂いだったそうなので、デフォルトで酒臭い川ではないです。
思えば三重県という名前も、四日市の手前にある坂を登った日本武尊が「しんどすぎて足が三重に折れ曲がりそう」と言ったからだということを思い出しました。サラダ記念日のノリで地名をつけるな。


長々と小田原について書きましたが、要するに小田原はこんな所ですというのはこのマンホール一枚の方が断然わかりやすいです。箱根(小田原藩の管轄)、小田原城、酒匂川とポイントが全部押さえられています。あとはさっきの焼肉屋も入れたら完璧です。

松屋本陣跡

個人の家なんですが・・・


幾多の住宅街を徘徊してきました
松が立派!!!


相模国 大磯宿(神奈川県中郡大磯町)

メチャメチャ雨が降っていますが、なんとか大磯に着きました。
大磯はかつては相模国の国府が置かれた場所です。また、温暖な気候から明治には保養地として栄え、歴代8人もの総理大臣を始めとする要人たちの別荘が多く築かれました。マンホールにも大磯ロングビーチの絵が描かれています。まあ今日はビーチにも行けないし大雨なんですが・・・。

新島襄と大磯

新島襄さん

大河ドラマ「八重の桜」が大好きで同志社進学を夢見たミーハー女なので、大磯と聞いて真っ先に思い浮かんだのは、同志社の創立者・新島襄の最期の地でした。新島襄は同志社(当時は英学校)を大学にするための資金繰りで関東に出向いていた最中に病に倒れ、1889年、大磯で亡くなっています。彼が亡くなった旅館の跡地に石碑が建っているようですが、いかんせん雨かつ先が長いので諦めました泣
新島襄の遺体は京都の八王子山に葬られています。彼はクリスチャンなので火葬ではなく土葬なのですが、まだ霊柩車もない時代、大磯から京都までの遺体は鉄道で運んだのでしょうか?流石に徒歩ではないでしょうが・・・。

大河ドラマの影響で、高校生の時にわざわざ同志社のオープンキャンパスにまで行きました
ついに横浜とかいう今まで見たことがなかった地名が出てきたので小躍りしました。


新杵


流石にお腹が空いたので、近くのコンビニのイートインを借りて昼食を取りました。デザートには明治24年創業の和菓子屋・新杵で買った饅頭をいただきます。
刻印されている西行は、松尾芭蕉の次に東海道で名前を聞く気がする平安末期のお坊さんのことです。武士の身分を捨て出家し、全国を旅して歌を詠んでいた西行は、大磯でも歌も残しています。それにあやかって西行の名前が刻印されたお饅頭が売られています。詠んだ歌の一節をモチーフにするのではなくどストレートに一言「西行」なのが清々しいです。

天気予報を見ましたが、あいにくこの日はずっと雨模様でした。本当は藤沢宿まで歩く予定でしたが、次の平塚まで2.9キロ、平塚〜藤沢で13.7キロと、箱根の呪縛で足が痛いのと雨の中歩き続けられる距離ではない(舐めプでごめんなさい)ので、2.9キロ先の平塚までは歩くとして、そこから先は体力と天気次第とします。

写真だとまるで雨粒がうつらない

相模国・平塚宿(神奈川県平塚市)

大磯から1時間も経たずに平塚宿に着きました。もう靴が雨でグッショグショです。
平塚は東海道以外にも八王子に続く八王子道、平塚と江戸を結ぶ中原往還など、東海道以外の関東の主要街道が通っていました。あまりに人の往来の多さに、平塚宿の東側に宿場町が拡張された位です。


平塚は太平洋戦争の折に空襲で街が焼けてしまったので(こういうの多くて本当に嫌ですね・・)、あまり宿場町の面影は残っていませんが、所々復元されています。これも往時を彷彿とさせる松の木です。
後ろにあるのは高麗山(こまやま)です。古来、朝鮮半島からの渡来人が日本にやってきた際に上陸の目印となっていたそうです。お椀をひっくり返したようなこんもりした形が特徴で、歌川広重の浮世絵にも描かれています。

広重は山の形をデフォルメしがち


なぜか昔画像検索をして後悔したダイダラボッチを彷彿とさせるような現実離れした形の山ですが、意外にも実物も丸みをおびた形でした。

本陣跡

江戸見附

急に江戸感を出してくる平塚

宿場町の西、東其々に設けられた入り口です。西側は京(上方)見附、東側は江戸見附と呼ばれています。
地域によってこの入り口の呼び名は微妙に異なり、静岡では木戸、愛知より西は棒鼻と呼ばれることが多かった気がします。幕府はこういう呼び名までは統一しなかったんですね。
まだ街が寝静まっている時間帯に小田原を出て、そのあとの大磯も雨のせいで外に人がいなかったのですっかり油断していましたが、平塚は人がまあまあ多いです。当時は疲労が羞恥心に勝ってたので全然気にしていませんでしたが、平塚の駅前、一番人が多い辺りでずぶ濡れの雨ガッパを着て見附の写真を撮るOLは、今から考えると不審者以外の何者でもないですね〜。

さて、何とか平塚まで来ましたが、街行く人も皆傘をさしている位強い雨の中で、藤沢まで歩く気力はありませんでした・・。ただ、ここ平塚で終わるには不完全燃焼なので、平塚と藤沢のちょうど中間らへんにある、茅ヶ崎駅まで歩きます。基本ずっと1号線沿いなので面白い写真は特にありませんでした。

馬入川


唯一撮ったのが馬入川(ばにゅうがわ)の橋の上からの一枚です。
馬入川は酒匂川同様頼朝にゆかりのある川で、行事でこの辺りまでやってきた頼朝の馬が突如暴れ出し、川に入っていったというのが名前の由来だそうです。川の名前になりがちな頼朝さん・・・。
今は橋で渡れるものの、江戸時代は船渡ししか方法がありませんでした。こんな雨が降ろうものなら即効中止で、一泊分足止めを食らっていたでしょうから、橋梁技術の発展に脱帽です。

橋の上は風が強いうえに、私の手は寒さで第一関節を少し曲げるのも一苦労なくらい悴んでいたので、これが平塚を出てから最初で最後の写真になりました。この後茅ヶ崎から小田原まで電車で戻り、新幹線で都に帰りました。

さて、残るは2日となりました。次回は引き続き神奈川県を歩いていきます。普段関西弁以外聞こえない環境で働いているので、街行く人の関東弁を聞くのは変な感じです。。。
繁忙期と体調不良のダブルパンチで月一更新しかできない為体ですが、また次回も詠んでいただけると励みになります。

寧々

あとすこし!!!!


【おまけ】歌川広重の浮世絵と同じ構図で各宿場町の写真を撮るチャレンジ


広重さんは山をデフォルメしがちなので、どこを描いた絵なのかが分かりにくいです
大磯
浮世絵でも雨が降っている
平塚
ダイダラボッチ(トラウマ)みたいな山

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