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葬儀ナレーションは、取材も原稿もライブ感を大事にしたいという話。

今日は、そんな話を出先でしたので、自分の方向性を整理するためにも、ちょっと掘り下げてみようと思います。

付随して、以前書いた記事も関連としてココに上げておきますので、よかったらどうぞ。

取材ライターとしての、仕事の方向転換をしたのがことし2月。
すでに170件以上の葬儀のナレーション原稿を書き、読んできました。進行のみのナレなしの現場もあるので、たぶんトータル200件はやったはずです。

noteで、比較的初期に書いた上の2つの記事、内容は今も同じ考えでいるので、なんら加筆や修正することはないのですが、私が今取り組んでいる仕事は、取材時「人と人が対面であること」が必須条件だなと思っています。

例えば、葬儀のナレーションのための取材でなければ、電話取材でも大丈夫だと思うんです。しかし、ナレーションは一発勝負。取材は、大切な方を亡くした深い悲しみの中行われ、出来上がった文章は、ご遺族の方々も、本番1回しか聞きません。校正する時間もありません。なのに、もう絶対に失敗できない状況です。毎回崖っぷちです。

だからこそ、ご遺族の方の表情の変化、声の大小・強弱、そこから垣間見える故人さまとの関係性の深さ、場の温度や湿度に至るまで、全てに集中してお話を伺い、最適なことばを選んで、文章を仕上げなければなりません。

私は取材でのやりとりから、原稿の内容、読み上げまで全てにおいて、葬儀ナレーションにはライブ感が必要だと思っています。読んだ文章が耳に入り、心を優しく揺らして通り過ぎていく。写真や映像のように後には残らないけれど、むしろそれでいい。いや、それがいい。

たった数分ですが、その葬儀を一緒に過ごした方々「だけ」が共有する、故人さまの人となりやエピソードが、温かな涙に変わり、大切な人を見送る寂しさや悲しさを優しく包んでくれる。そんな文章を目指したいと思いながら、お仕事にあたっています。

ただ、奪われない仕事の確信は今も持っていますが、なくなるかもしれない可能性はあるなと最近思っています。それは、そんなライブ感は不要、という判断を、クライアントさまがした場合。
そのときは、私のようなタイプの仕事の仕方だと、対応するのが難しくなるかもしれないなと。まぁ、効率化、自動化が優先されるときがきたら、そういう覚悟も必要かもしれません。笑

とりあえず、やれるところまでは、こんな感じでやっていきたい。同じ人生は決してないし、家族のかたちは家族の数だけあるのだから、定型文では片づけられない、目の前の「人」の思いを、形にしていくことを大切にしていこうと、改めて思う今日このごろなのです。


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