日記 #24

23.7.16.

 春学期の授業が一通り終わったのでこれからは基本家にこもる日が続く。…なんて気づまりするんだ! 陽の光を浴びず誰とも話さないでいると、どれだけ健康に気を使っても心身のペースが少しずつ乱れていってしまう。一人で言葉の世界に沈潜なんて、僕には叶わないのだろうか。憧れるけれど。ナルシシズムっていざ実践するとなると相当難しいと思う。
 それでもフランス語はちびちびやっている。この頃になってリスニングが最初の関門を抜けた感がある。簡単な文ならナチュラルスピードでも断片的に聞き取れるようになってきた。三か月前はちっとも頭に入ってこなかった。

 フランソワ・トリュフォー「柔らかい肌」を鑑賞。トリュフォー作品を観るのは「大人はわかってくれない」「突然炎のごとく」に続いて三本目。好きな監督と言われてトリュフォーの名が挙がることはまずないのだが、一方でそれぞれのトリュフォー作品にはどれも大変満足している。こちらまで罪悪感を覚えてしまうくらいにフェティッシュなカメラワークは他に類を見ない。いや、そういえば庵野「ラブ&ポップ」の演出もキモかったか。良い意味で、とフォローしてやりたくないところに働いているのは、トリュフォーを推しきれないのと同様の心理だ。
 妻子を持った有名批評家の不倫と破滅を描いた「柔らかい肌」も、シナリオはシンプルながらサスペンシブな演出が光り文句なしの見ごたえだった。
 ハイヒールが何度も出てくる。モノクロの中でくっきり真っ黒に浮かび上がった女性ものの靴は、ピエールの視線を経由しながら次第に作品の重心を担ってゆき、短いカットに一瞬映りこんだだけでこちらの意識を奪い去るようになる。ちらちらと焦らすように映ってはすぐ画面から消えて、その間歇が極めて性的。つまりハイヒールは不倫の象徴なのだが、そのヒールをピエールの娘が履いて遊ぶ姿を映した、終盤にほんの数秒だけ挿入されたカットがすさまじかった。変態すぎてそして意地悪すぎて頭に焼き付いて離れない。
 個人的な興味としては、ピエールの脚フェチと自覚なく女性を篭絡し振り回す点に、どこまでマゾヒズムを見出せるかが気になる。もしかするとピエールは自分の脚フェチに気づいてないのではなかろうか。タイトルは「la jambe douce 柔らかい脚」ではなく「la peau douce 柔らかい肌」なのだし。

フェティッシュとは、女性のファルスのイマーゴないし代替物である。すなわち、女性にペニスが欠けているということを、私たちが否認する手段なのだ。フェティシストは、子ども時代に不在に気づくまえに、じぶんが見た最後の対象をフェティッシュとして選ぶ(たとえば、足から上に昇ってゆくまなざしにとっての靴)。フェティシストは、この対象への、この出発点への回帰によって、異議にさらされる器官の存在を権利上維持することが可能になるのだ。それゆえフェティッシュとは、まったく象徴などではなく、固定され凝固した画面であり、静止したイメージであり、運動のもたらす不愉快な帰結や、探索のなかでの不愉快な発見を祓い除けるために、人がたえず舞い戻る写真なのだ。[…]否認と宙吊りの過程によってかくの如く定義されるフェティシズムは、本質的にマゾヒズムに帰属する。

ジル・ドゥルーズ『ザッヘル=マゾッホ紹介』堀千晶訳

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