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命綱の記憶

 2007年3月25日。石川県で能登半島地震が発生した後、県内の金沢市に隣接する市に住んでいた私は県が参加を呼びかけた災害ボランティアの一員として、能登へ向かいました。そこで、地震の被害を受けた家の片づけをしたり、家財道具を運び出したりしました。

 無心でその作業に没頭しているときに、テレビ局の取材が入ってきて、「どうしてこのようなボランティアに参加しようと思われたのですか?」と尋ねられました。私はとっさに、「自分の住んでいる地域も揺れたので、他人事と思えなくて来ました」と答え、その様子は朝の全国ニュースで流れました。

 もちろん、私はそのとき、のちに未曽有の大地震が起こることなど知る由もありませんでした。

およそ4年後の2011年3月11日。東日本大震災は発生しました。津波は、東北に暮らす人々の命だけではなく、メディアを通して被害を知る人々の心をも、一瞬にして飲み込んでしまいました。

テレビも新聞もインターネットも震災に関する報道一色になり、大災害の爪痕にただ茫然としてしまう人も少なくなかったのではないでしょうか。かくいう私もその一人でした。何かしなくては、と気が焦るばかりで、被災された方との隔たりや深い溝を強く感じました。それでも、残された私たちは生きなくてはならない。進まなくてはならない。

 時は残酷に過ぎ、ご縁があって震災から半年後の2011年9月に、宮城県南三陸町で開催されていた「福興市」というイベントに、能登から出店する機会をいただきました。「福興市」は、地元や全国各地の特産品を持ち寄って販売し、地域の経済を活性化させようというイベントです。能登半島地震による風評被害をなくそうと立ち上げられた能登スタイルストアというお店からの出店でした。しかし、準備するのも一筋縄ではいきませんでした。当時能登からの往復の移動手段は、電車が通っていないので車しかない、宿を探すにも営業している宿がほぼない。それでも、周りの方の協力もあってなんとか出店にこぎつけ、売上で現地の特産品を仕入れて能登に持ち帰り、販売することができました。今でも、南三陸町のだだっ広いむきだしの地面の上に広がる満点の星空と、怖いくらいの静けさ、朝、歌津の高台にある宿から見た穏やかに凪いだ志津川湾の美しさ、女将さんの朗らかな笑顔が強く脳裏に焼き付いています。その年の暮れに、金沢市から支援を受けて、片町商店街の組合さんと合同で、復興支援のグルメ市を開催する機会もいただきました。何度もくじけそうになりながらも、「他人事じゃない」という自分の言葉を胸に、お世話になった南三陸町のかまぼこ屋の店主さんの力強い「大丈夫や」という一言に支えられ、このような活動ができたと思っています。

 自分が支えになりたくて取り組んだことが、逆に被災地の方や地元石川の方に支えていただいたことは、本当に今でも感謝の念しかありません。

 多大なる自然の力を前に、私たちは無力にも等しいのかもしれません。

「命綱」とは、それが実際に命を助けうる強度をもっているか、ということよりも、「それがある、自分に手を差し伸べ、助けようとしてくれるものが存在する」と思ってもらうことで、その人の本来の力を引き出す効果をもつと、精神科医の宮地尚子さんはおっしゃっています。

 私の「命綱」になってくれた人を絶対に忘れず、また、人とのつながりにおいて、自分も誰かのそんな「命綱」であれたらいいなと思います。この世を去るときに私たちが持っていけるのは、自分にはこんな命綱があった、という記憶だけなのではないでしょうか。その記憶が、いつでも人をあたためてくれるのではないかと思います。

 今も苦しみ続けている方が、一刻も早く苦しみから解放されることを、心から祈っています。

※参考文献:宮地尚子「傷を愛せるか」大月書店

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