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表現の自由と責任、そして受け手の自由と責任。

あいちトリエンナーレで、物議を呼んだ表現があった。

最近、それに対して文化庁は補助金は全額不交付とした。

今朝はニュースで、しんゆり映画祭の「主戦場」の上映のことがあった。

どうやら、市民との対話の場があり、

安全に実行するために策を講じて、上映することになったと。

それは、すでに暴力的な抗議があったからである。


表現されたものを全て、コミュニケーションという切り口で考えると。

これは、表現をした側と表現をされた側に分けて考える。

(マスの話だが、マスを一つの個として考えてみる。
そこからまた、自分の個としての考えも進めたい。)


表現をした側は、あいちトリエンナーレでも、「主戦場」でも

これは受け手側の「心の急所」のようなところを

短絡的に刺激することになってしまっている印象。

わたしは、その表現をした側は責任を持ってその結果は引き受けると考えるので、

あいちトリエンナーレも、川崎市も、

よく話し合い、とても冷静で理性的な対応だったと感じた。


受け手の責任は?これはパブリックな話なので、誰でも受け手になってしまう。

もちろん、暴力的な反応や単なるディスりは、意味がない。

なんでこんなに揉めるんかなあと思ってしまったわたしは、
(ヤバイ、受け取ってしまった。。。)

この問題に対して、少しだけ調べてみようと思った。

それが、表現されたものに対して反応する自分の責任だ。


あいちトリエンナーレで作品を出した方の背景や意図を知ることができた。

慰安婦像は、「戦争と性暴力をなくすための『記憶闘争』のシンボルとして、世界各地に拡散している」という解説一つで、なるほどと思った。

「主戦場」という映画の予告編、監督の話、

それにまつわる出演者?インタビューを受けた人たちの抗議も見ることができた。
(インターネットのおかげで、動画の説得力はすごいな)

もはや、話がすり替わりそうだ。笑 これドキュメンタリーやし。


せめて、ちょっとだけど、受け手としての責任は果たしたかな?

ドダイ、歴史なんて国の都合だから、どっちでもいいんだけど。

芸術は、「炭鉱のカナリア」と思っているので、

時代の匂いに慣れてしまっている日々には、いい刺激だったな。


わたしとしては、

芸術・文化って、人間の根源的な欲求、もっと高次へ憧憬を

扱ってほしいものだと思っている。


だから、世界は美醜、善悪、なんかで満ちている。

映画「クラウド・アトラス」より、ソンミのセリフを引用して、終わっとこ。

Our lives are not our own.
命は、自分だけのものではない
From womb to tomb, we are bound to others.
子宮から墓場まで、私たちは人と繋がっている
Past and present, and by each crime and every kindness,
過去から現在まで、すべての罪、あらゆる善意が
We birth our future.
未来を創る





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