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残響音を聴きながら

去年、想定外の事象があってから、カウンセラーさんのお世話になっていたのだけど、

ついに昨日、最終日を迎えた。

最後の日だと決まっていたわけじゃない。

でも、ちょっと忘れてて遅刻しちゃったし、いっときはいくら話しても話しきれないような状態だったのに、

途中から話すための課題を探しているような感じを自分時自身に感じていて、

後半は、カウンセラーからここまでへの労いの言葉が繰り返され、自然と「今日でおしまい」となった。

なんだか不思議な感じだ。

クライアントもひとり、自分の意志で一旦の卒業を宣言した。

GWを区切りにと、あたらしく中身を積み上げていく枠も形にした。

サービスとしての形も作った。

コロナをきっかけに一旦崩れて宙に浮いていたブロックが、なんらかの機能としてかたちになり、創造のフェーズが一旦終わったことは間違いない。

昨日今日のタロットも、ペンタクルの10、ワンドの4と続いていて、完成したひとつの演劇を振り返り、ひとつの規格が安定し、一旦の成果として眺めることを促している。

衝動や希望に突き動かされて、壊れた破片をあたらしく手に入れた道具で「作り直す」時期は、終わったのだ。

6月からは予定していたトレーニングが始まる。
形として新しくスタートした仕事は粛々と実行して積み上げながら、

またゼロ視点からスタートする。

それが頭ではわかった。しかし体が重たい。
まだ、前のフェーズの経験に沿った反応をしてしまい、それが自分の足を引っ張っているのがわかる。

これまでの体験から、あるいは変わることそのものを、体は恐れている。

問題が他の問題の理由にできる状況、困難の代わりに希望もある状況に、依存している部分を感じる。

体は頭よりだいたい遅く適応するから、その速度を調整しないと頭と体が分断されてしまって要注意だ。

昨日のコーチングで対話しながら、自分の体の反応を観察し、前に進むのを体が拒むなら、前に戻ればいいじゃん、というところに着地した。

ヨガと瞑想。

問題に飲み込まれてから、一人の時間が貴重すぎて、すっかりやらなくなってしまった朝のルーティン。

それに気づいたとき、ふっと体が軽くなった。

やり慣れたことなら、思い出すだけでいい。
あの、ここちよい朝の時間を、もう一度。

そんなわけで。

過ぎ去ったパターンの残響を感じながら、数年ぶりの太陽礼拝と瞑想をした朝。

子どもに一歩遅れて、わたしも生まれ変わったよ。

とりあえず、そう決めてみた。

自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。