親ガチャと子ガチャの根本的な違い
親ガチャという言葉がある。
これは、「子どもは親を選べない」という文脈で、特に望ましくない親の元にいる子どもが自分の親が悲観的に述べる言葉として知られている。
ほぼほぼネガティブな意味合いで使われる言葉だけど、おもしろいのは子どもが「自分の方がガチャを回したのだ」と、親を選ぶことに対して主体的なイメージを持っていることだ。
ここでいうガチャは、駄菓子屋の前のガチャではなく、スマホアプリのゲームで初期状態を決めるためのガチャを指しているのだろう。
だとすれば、ガチャを引く状態に至る前段階には、まず「人生というゲームを始めよう」という意思があるわけだ。
一方、「親ガチャっていうなら、子ガチャもあるだろ」という大人がイメージしているガチャは、駄菓子屋の前のガチャである。
親世代が子どもの頃になけなしの小遣いを投じたのに、なぜか無塗装のキン消しが出てくる、9.9割ハズレの無慈悲なガチャだ。
同じガチャでも、やる動機もハズレで出てくるものも違う。子どもにとっての親ガチャは人生を決める重要な道具であり、親にとっての子ガチャは、夢を投影した娯楽だ。
正直、初期パラメータがガチャで決まるゲームをしたことがないので、子どもサイドが感じている親ガチャ感はあんまりわからない。
でも、忘れた消しゴムの代わりにもならない無塗装のキン消しは、0.1割の天才ベイビーがどうでもよくなるくらい、愛おしい。
自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。