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【書籍紹介】どの子ものびる脳の不思議

『どの子ものびる脳の不思議』高田明和/かもがわ出版

過日、アメリカの大リーグの選抜軍が日本にきた時に、ランディ・ジョンソン投手にアナウンサーがインタビューしました。最後に「あなたにとって野球はなんですか」と聞いたのです。日本なら「野球は私のすべてです」とか「野球は私の人生そのものです」という答えが返ってくるのが普通です。ところが、ジョンソン投手は「野球は自分にとってもっとも重要なものではない。自分にとってもっとも重要なものは家族で、野球はそれを支えるものだ」と言ったのです。(中略)するとボンズ選手は、「野球はゲームにすぎない。ただ人に喜びや悲しみを与えるゲームだ」と言ったのです。

中学のころにある塾に通っていたのですが、その先生は極端で「学校の英語の先生などなにも知らない」といつも子供たちに述べていました。そして、「授業の時にこれを質問してみろ。きっと答えられないから」とそそのかすのです。(中略)それで、多くの生徒は先生に反抗的になりました。それは高校に入っても続きました。高校は大学に入るための通り道にすぎない、そこの教師は予備校の教師のようなもので尊敬などに値する人はいない、という感覚です。(中略)さて、最近、私たち同級生が何人か集まって会合をしました。(中略)その時に仲間から異口同音に出た言葉は、「H先生は自分の人格を破壊した」という言葉でした。(中略)「子供は無条件で先生を尊敬し、信頼するような学校時代を過ごした者が一番幸せだ」と言いました。

本当にそれはそうだ。

長男の担任の先生、今、私の心の中では「新入社員」という位置付け。
相変わらず、「およっ?」という失言多く、その一部はあんまりおかしいのでここには書けないっていうか、単なる悪口になっちゃう。
(実際に話して聞かせた友人、大、大、大爆笑。)
でも、まぁ、経験不足と若さは誰もが通ってきた道なので、きっと、将来いい先生になるだろうと思う。

私は私の考えとして、画一主義の学校教育に疑問を持つことがいっぱいある。
だけど、何度も書いているように、それは正ちゃん 対 先生にはなんの関係もないことだ。
正ちゃんは馴染みの悪さを感じながら、私みたいに大人になってからその居心地の悪さに説明をつけて納得すればいいと思う。
今のところ、楽しそうに行っているし、その居心地の悪さって、正ちゃんの人生に必要だから与えられているのだろう。

と同時に、子供の「無条件の尊敬の対象」になるべく、先生たちには本当に努力してほしいものだ。
せめて、その自覚を持ってほしい。
学校の先生に限らず、職業に対するプロ意識の薄れている昨今なので。

*  *  *

2019年9月追記

長男の正ちゃん、その後、担任の先生にはすごく好かれるか嫌われるかのどちらかでした。でも、一度も先生のことを悪く言ったことはありませんでした。我慢している様子もなく、なにごとも受け止めている感じでした。

わたし自身はお気づきの通り、学校教育(誰か/どこか、という話ではなく、国の制度としての学校の在り方)について、たくさんの反論や批判があり、自分が生きているうちに、子どもたちのために何らかの抵抗やメッセージを上げられるような力を持ちたい、と思っています。でも、そのことと子どもがどう思うか、どうするかは別問題です。もし持論を元に子どもに焚きつけていたら、今ごろふたりとも反抗的な不登校だっただろうと思います。そりゃそうですよね、親のことが大好きだし、与える影響は甚大ですから。

長男は今でも(馴染んでなかったのに)学校が好きで、次男は(表面的にはうまくやっているのに)大嫌いです。

ふたりとも、好き/嫌いという感情を持ちつつ、自分なりの付き合い方を見つけています。それでいいと思います。

長男は今年で20才になります。先日、「今まで担任してくれた先生の中で、嫌いだった人はいる?」と聞いたら、「あんまり覚えてない」とのことでした。「中1のときの先生は、いかにも正ちゃんのことが嫌いって感じで、お母さんとしては嫌だったよ。正ちゃん、かわいそうって思ってたよ」と言ったら、「あ〜、そうかもね。でもしょうがないよ、あの先生は先生としてもいろいろ変だったから」と言っていました。「どんな風に?」「う〜ん、よく覚えてないけどヒステリックだったりとか、不公平だったりとか」

冷静に大人としてどうだったかと考えることができて初めて、親子でこのような会話ができるようになりました。大学生って、いちばん哲学的な考え方ができる時代だから、今のうちにたくさん思い返して、「自分がなぜ自分なのか」を解いていったらいいと思い、このような会話もたくさんしています。

反抗心、反発心はわたしは悪いことではないと思っています。わたし自身は、自分が子どもの頃から学校教育に疑問がありました。小学校の頃にたいへん尊敬する先生に出会い、「尊敬していたい」という気持ちが強かったからこそ、不公平な先生に出会うと「なぜ、そのようにするのか」という疑問や怒りが湧いていました。

それで、それを直接、先生にぶつけて「なぜですか」と聞きに行くような子どもでした。反抗というか、議論がしたかったのです。真正面から考えて答えてくれる先生もいました。

わたしが子どもの頃は、「君たちはどう生きるか」に出てくるおじさんのような先生がたくさんいました。子どもを相手に、ちゃんと議論してくれる先生が。そうやって教育者がキャッチャーになってくれることで、子どもは自分を振り返り、社会を見つめ、その折り合いをつけていけるようになると思います。

だから、わたしは世の中のことについて、反対意見や疑問を持ち、それを表明すること自体は、全然悪いことだとは思っていません。(キャッチしてくれる教育者はもっと増えて欲しいと思いますが)

ですが、あくまでも「自ら湧いた疑問」であるべきで、大人に焚きつけられてはそれこそ「人格の破壊」に繋がると思います。

ですから、子どもの前で不用意に悪口を言ったり、ヒステリックにクレームを言うなんて、言語道断だと思います。

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