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スターゲイザー scene 4

4.天国の断崖に立つような日々を

   雨みたいだと思う。
朱江(しゅえ)の声は耳の奥をやさしく濡らす驟雨のようで。いつまでたっても、耳に残って離れない。
ーうき。ねえ、うき。
何度でも繰り返して、何度でも呼びかけて。この度にうれしくなる、世界が優しくなるし、唐突に走り出したくなるし、唐突に立ち止まりたくなる、唐突に、泣き出したくなる。
   辻宇希が晋朱江にあったのは、5年前の春で、大学の講堂にひしめく新入生の中に彼女の姿はあった。
「サラサラヘアーだ。」
 斜め前に座ったその人の黒く長い髪に見とれていた。後ろ姿だけで自分と彼女の住む世界の隔りを測るには十分だった。自分とは正反対の綺麗な子。同じ講義で何度も見かけた。宇希は幾度か、人から声をかけられている彼女を見たが、特定の誰かと一緒に行動するわけでなく、大抵は一人で講義に出席し一人で購買でお昼を買っていた。カジュアルだけど洗練された服装、他の学生を寄せ付けないノーブルな雰囲気、シャイなのか物事に無関心なのか無口で表情に乏しかったが、それを補って余りある雄弁な眼差しを持っていた。気が付けば目で追っていたし、いつもの時間いつもの場所に彼女が現れなければ意気消沈した。しかし、宇希からその人に話しかけることはなかったし、その人もおそらく宇希のことなど目に入っていない、というのが宇希の見解だった。
   キャンバスの染井吉野は散り去って、躑躅の赤い花がサークルや同好会の入った活動棟への細い道を彩っていた。その歩道の脇には新入生勧誘の立て看板が並んでいた。「新入生歓迎‼︎」「新入生サークル説明会」「○○研究会へようこそ!」「君を求む!」「まっすぐ行って、右↑」。看板の浮き足立った常套句の前を、初々しい新入生の一団が通って行く。その集団から一人離れて、宇希はサークル活動棟の多目的室を目指した。A4サイズの白紙に『映画研究会蛍  新作上映会』と書いてセロハンテープで入り口にとめられた多目的室は、暗幕が張り巡らされ、入るのに少し躊躇した。内部の暗さのためだけでなく、人を選びそうなカルトな雰囲気が漂っている。受付にはライダージャケットに眼鏡の小太りの男性がいて、「新入生の方ですか?こちらに記名をお願いします」と言われた。宇希が躊躇していると、男は
「書いたら入部とかじゃないです。悪いことにも使いません。あ、偽名でもいいです。」
と言う。じゃあなんの為の名簿なのかと思いながら『辻ウキ』と雑にペンを走らせた。
自分の前の来場者は少し丸みのある文字で『晋    朱江』と書いていた。
ーシンアキエ?シンコウヨウ?留学生かなあ。
会場内部の薄暗がりにパイプ椅子が並んで、お客が点々ポツリと座っている。映画を楽しみにきた人というより、観客役を割り当てられた素人のエキストラに見えなくもなかった。大学の自主製作映画に足を運ぶのは、おそらく物好きの部類なのだろうと宇希は思った。
   ステージには白い映写幕が掛かっている。暗くて埃っぽいその空間の中で、皆息をひそめている。それがもう映画のワンシーンかのように宇希は感じた。まだ何も写っていない映写幕に『晋朱江』という字が浮かんだ。朱い江(かわ)。文字は溶けて像に変わる。落日に朱色に染まる広い河のほとり、盲目の孔雀を懐かせた少女が佇んでいる。少女の髪は黒く長く、頰は日の照り返しでほの紅くみえる。そんな情景を彼女はぼんやりと思い描きながら、上演を待った。ふと、前列に想像の中から出てきたような流れる黒髪を見た。まさかと思い受験勉強で視力の低下した細い目を凝らした。髪の間からのぞく耳や、肩から腕にかけての線に確信があった。
ーあの人だ!
 宇希の心臓は跳ね上がり、全身が硬直した。
ー映画好きなんですか?エイガスキなんですか?エイガスキナンデスカ?ナンデイルンデスカ?ナンデスキナンデスカ?
少し身を乗りだせば話しかけられる近さだが、言葉は脳内で溶解するばかりだ。背後のそわそわした気配を察したのか、その人が振り向いた。宇希の視線を捉え、心持ち眼を開いた。「あなたのこと、知ってる」と真っ直ぐに向けられたその目が言った。視線だけの会釈のような小さな動き。充分だった。一方的に見つめる対象だった人が、自分を認識していた。湧き上がる喜びで体が持っていかれてしまいそうだった。映画を鑑賞している間ずっと抑えようとしても抑えきれないそれは、正しく嵐であった。
   上演されたフィルムは、特撮物のパロディとショートコメディの二本立てだった。コメディの方の監督兼俳優が、『プロのようで何かスゴイ』というのが宇希が持った感想だ。その彼が曳馬太一だったわけだが。それを機に辻宇希と晋朱江はともに、映画研究会『蛍』へ入部した。

「ずるいですよ、ずるいですよー!基礎練してるだけで絵になっちゃうなんてずるいですよー!えいっ!」
 そう言って水窪夏香は、航介の背中をグイッと押し付けた。
「痛いって、なっちゃん」
床で開脚前屈をしていた航介は、ぎりぎりとした痛みを耐え忍んだ。
「上島くんは体、硬いですねー」
夏香は体重を全て航介の背に預けるようにしてのしかかった。小柄で華奢な彼女がそうしても、少しも重そうではないのだが、航介には相当きついらしく目を閉じて歯を食いしばっている。
  『ドギースプリット』の練習場所として借りたのは名古屋の各所にある青年の家という施設の一つで、学校のような作りのちょうど教室ほどの広さ部屋に航介と夏香、朱江が顔をそろえていた。朱江は部屋の隅に机を出して、四つ切りの色画用紙に刷られたチケットを一枚づつ切り離す作業に没頭している。航介は柔軟体操と筋トレ、発声練習のいつものメニューを夏香に手伝ってもらいつつこなしていた。予定では今日から台本の読み合わせのはずだが、主宰で役者の曳馬も作家の宇希も姿を見せない。
  第一回の公演は年をまたいで、来年の早春だ。時期を考えれば、台本がまだできていなくても十分間に合うスケジュールだが、航介は待ち遠しくて仕方がない。それに出演は自分と曳馬の二人だけで、出番もセリフも今までとは比べようもないほど多い。当然、やる気と同様にプレッシャーも感じる。
 「ねえ、朱江さーん。台本どうなったか知ってます?」
航介を痛めつけながら、夏香がきいた。
「何ページかは書けてるみたいだよ、でも、太一くんがオッケー出さないから書き直し」
朱江はゆったりとした口調で答えた。
「はあ、大変だああ。」夏香は大げさに天を仰いで見せた。
「ネタだけで20本出させられたって、辻さん言ってましたよ。そこから5本にしぼって、プロット書かされて、いいやつ選んでようやく執筆ですよー、びっくりですよー」
「あのさ、劇団の座付作家ってそうやって台本書くの?」
航介が聞いた。
「ううん、その劇団によりけりだけど。そこまでやってる人は少ないんじゃないかな」と夏香が答え、「でも、曳馬さんがそんだけ気合い入れてるってことだから楽しみですよね!」と笑った。
「私は、太一くんのこだわりに付き合わされるウキが、大丈夫かなって」と朱江が小首を傾げた。刻々と時間は過ぎて、そろそろ退室のじかんが迫った頃、ドアにすがりつくようにして宇希が入ってきた。
「殺される!曳馬にやられる。かくまって!」
開口一番そういうと、夏香と航介の背後に回り込んだ。
「どうしたの?」「曳馬さんいるの?」「今、きたんですか?」三人に一度に聞かれ、「時間にはここにきてたんだけど、青年の家の入り口で曳馬の鬼に捕まって、今までロビーにいた。」
「部屋、借りてるんだからきてくれればよかったのに、今日、何も進みませんでしたよ」と夏香。「だって行かせてくれないんだもん。やつが煙草吸いに駐車場に出てったから、逃げてきた」
「台本は…?」
航介がおそるおそるきくと、「没収された」と返ってきた。鬼とか殺されるとかその言葉がどこまで真に迫っているのか彼はわからないが、宇希の細い目がさらに開きづらそうに浮腫み、見るたび濃くなっていくクマに執筆の過酷さがうかがえる。
  ーここは俺の出番かもしれない。
台本の進捗と宇希の疲弊度を鑑み、このままではらちがあかないと航介は思った。
「辻さん、実は俺、文芸部だったんです。」
「それは意外やわあ」と目を見開いた夏香と対称に、宇希の目は瞬きすらしない。完全に死んだ魚の目だ。
「中学生の時ね。」
無反応の作家ではなく、夏香に話すことにした。
「上島くん、テニス部とかサッカー部のイメージだったのに」
「小学校までは地元の少年野球チームに入ってたんだぜ。監督がきびしくてさ、」
「嫌になっちゃったんですね」
「あ、まあ、そうだけど、お陰で別の才能があるってことに気づいたんだよ。小説家目指して文芸部にしたわけさ」
「へえ、どんなの書いていたんですか?」
「冒険活劇、かな。架空の王国を舞台に、主人公が伝説の剣を求めて、それを守る竜を倒して仲間にして、そして魔王と対決するんだけど実は生き別れの兄なんだよ。けっこう泣ける話よ」
「それ、完結させられた?」
足元から低い声がした。死んだ魚がこっちを見ている。
「え、どうだったかなあ。文芸部の機関誌が年2回発行で、ああ、前後編にしたんだ。長くなったから」
「で?」
「完結はできたが、完成はしなかった。」
「どうゆうことですか?」と夏香。
「話の真ん中が書けなくてね。物語の構想に対して時間が足りなかったんだ。締め切りもあるし。友達が書いた学園コメディを中盤にはさんで斬新な読み物として完結した」
「ちょっと読んでみたい気もしますー」夏香が苦笑した。
「あ、読む?実家に行けばあるから、今度見せるね」
「なんか、気楽で良いねえ」
また足元から棘のある言葉が、するどい犬歯の間から吐き出された。
「俺は、作家になるより先に、作家の苦悩を知った男なんです。」
航介は胸を張って言い放った。
ーここで俺が台本を引き受けると言えば、確かに重圧だが、台本は『セリフ』と『ト書き』だけだ。小説より楽なはずだ。
「だけど、」と彼は国語の教科書に載っている『文豪』のポーズを真似て、手を顎に添えた。
「俺のペンはまだ、錆びちゃいないはずだぜ」
 ビシッと決めたはずだが、宇希はおろか夏香さえ目を合わせてくれない。朱江は相変わらず作業に没頭している。画用紙を切るシャーという軽い音が、練習部屋の静けさをきわだ出せた。
 ー噛み合わないなあ。
航介の顔がほのかに曇ったところに、バタンと大きな音を立ててドアが開いた。
「お疲れ様ー!ねえ、なっちゃん、辻ちゃん帰っちゃったんだけどさ、練習すすんだ?」
左手に台本の原稿を丸めてもった曳馬が入ってきた。
「あ、お疲れ様です。」夏香は「あ」の口のままそう言った。
「うぉ、いるじゃん、辻ちゃん。」目ざとく見つけた曳馬は距離を詰めてくる。宇希は立ち上がると即座に詰めらた分の距離をとった。「おい、ちょっと逃げるなよ!」
 航介と夏香の背後に隠れ、窓を背にしていた宇希は追い詰めらて窓枠に手をかけた。突然裸足で車道に飛び出したことのある女だ。航介が慌てながら、
「危ないですよ、ここ二階だから」と止めたのと、
「死ぬなら台本書いてから死ね!」と曳馬が言い捨てたのが同時だった。
ーああ、鬼だ。
航介は確信した。
「台本は書きますが…」
航介と夏香に保護されるよような格好になりながら、宇希が言った。
「死ぬつもりもないですし…」
それから長く沈黙したあと口を開いた。
「あんたの言うこときいて、書き直しに書き直しを重ねましたが、アレのような展開をみせろとか、コレのようなセリフの掛け合いをつくれとか、具体的に言ってくれたことは全部詰め込んだつもりですが、それでできたものに『オリジナリティ』がないと言われても、そもそもが二人の合作みたいなものだし、いったい『オリジナリティ』とは何なんですか?」
  航介は眉根を寄せた。これは危機的な状況なのでは。劇団として、仲間割れというやつではないか。
「辻ちゃんにしか書けないものを書いて欲しいんだよ。俺が言ったこと全部、ぶっこんでもパロディにしかならないよ。それは分かってるよね。」
「はい、わかります」
宇希はそう言ったまま下を向いてしまった。
「俺はね、ドギースプリットの芝居がつくりたいの。誰も、今まで見たことのない舞台をつくりたいの。」
「それはできないと思います」きっぱりと宇希は言った。
「あたしは思うんです。今まで何度も上演してきた台本でも、誰もがしってる筋書きでも、それを『誰もみたことない』ものにすることはできるんです。『見せ方』は無限にあります。演出と役者の力です。作家だけに求めるのは、むりです。」
「それはもっともだよ。でも、そういうことじゃないんだよ。台本は舞台の芯なんだから」
そこにいる全員の上に沈黙が降りていた。
「これさ、」
曳馬が持っていた原稿を開いた。
「もう少し頑張れば良いものになるから、書いて」
歩み寄って宇希の手に戻そうとした。
「いいです、ウチのパソコンに入ってますから。今日はコピーしてみんなに配るつもりで持ってきたんです」そう拒否してそっぽ向いてしまった。
「ちょ、ちょっと読ませて欲しいんだけど」
航介が手を出した時、退室を促すBGMが流れ始めた。みな荷物をまとめ、手際よく施錠し外へ出た。夏香が製作のスケジュールとチケットノルマの確認をした以外は、みな無言だった。曳馬はバイクのエンジンをかけ、後ろに朱江を乗せた。宇希と夏香は地下鉄の駅へと足早に向かってしまった。
   曳馬から拝借した台本の原稿には少し丸めた跡がついていて、それがそのまま曳馬の台本への力の入れ具合のように感じた。駐車場の外灯の下で航介はそれを読んだ。
[ドギースプリット第1回公演『Make a Wish!』 
     作   辻 宇希
     出演   男  曳馬太一
                シスター  上島航介]
1ページ目にはそれだけ書かれていた。30ページほどの未完の台本を読み終えて、また1ページ目を見つめた。急に武者震いが来て低く唸った。
ーこれ、どうやって演じる気だよ。

 「なっちゃんはイイ子だね。」
地下鉄に揺られ宇希はとなりに座った夏香に言った。
「でも、そんなにアゲてくれると恐縮しちゃってダメになるから。」と口元を横に広げて笑ってみせた。
  青年の家から付かず離れずの距離で寄り添ってくれた夏香は、豊田行きの同じ車両に乗ってから、「食べますか?」と言ってかばんからグミを出して隣に座った。まだ、タイトルとプロットしか出していない台本を手放しで褒めてくれる。気遣いと優しさと無邪気さを絶妙な比率のブレンドにして差し出され、宇希は『ドギースプリット』に夏香がいることを心からありがたく思った。
   しかし、彼女の最たる懸念は台本にオッケーが出ないことでなく、先程、朱江の前で子どもじみた振る舞いをしてしまったことだった。曳馬が返そうとした台本を、拗ねて受け取らなかった。いくら追い詰められていたとはいえ、黙って受け取る事ぐらいできたのに、何て言い草だと自分でも思う。恥ずかしい。何度頭から振り払っても、朱江の瞬きすらしてないような凍った表情を思い出す。それがいつも通りの彼女の顔だったとしても。
「曳馬さん、ホンなんて自分で書けるんだよ」
夏香の優しさに甘えるような気持ちで言った。
「あの人は、ホンも書けるし、役者もできる。監督も演出も。機械にも強いし、」そこまで言って少し考えた。でもいつも思っている事は、素早く口をついて出た。
「何でもできる人に必要とされるには、何をしたらいいんだろう?」
  何でもできる人。
  事実、曳馬太一がやろうと思ってできない事はないのではないかと宇希は思っている。自分の不器用さと比較するまでもなく、彼は、他人の使い方も自分の使い方も熟知した才能の権化だ。ただ少しずぼらだが、それすら自分の魅力にすり替えている。
   映画研究会『蛍』に入会したことをきっかけに、宇希は朱江と一緒に過ごすことが多くなった。お互いのアパートを行き来するようになり、共通の趣味であるミニシアター系の映画に出かける事もあった。友だちらしい友だちがいなかったこともあって、出かける時もうちに呼び合うときも二人きりだった。元より口数の多い方ではない二人の間に必ず横たわる沈黙が宇希は苦手だった。一緒にいられるだけで嬉しい彼女にとって、問題なのは会話が少ない事でなく、遠からず朱江が、自分の愚鈍さやつまらなさの所為で離れて行ってしまうのでないかという危惧だった。
ー曳馬さんを呼び入れたのは、どっちかと言えば自分なんだろうな。
と宇希は思い返した。沈黙を粉砕してくれる人間として、曳馬はうってつけの人物だった。趣味が近ければ行動範囲も自ずと重なる。気がつけば何をするにも三人一緒になっていた。曳馬がいれば同じ話題でも5倍も10倍も面白くなり話も弾むし、曳馬がいれば朱江はよく笑った。朱江が楽しそうにしているのを見るのが自分は何より好きだった。やがてたいして会話をしなくとも、一緒の空間にいるだけでくつろぐようになった。
  『友だち』という言葉ではくくれないもの。そもそも宇希は友だちというカテゴリーを信用していなかったし、自分には不要なものだと『判って』いた。だから、朱江も曳馬も『友だち』ではない。でも特別な存在だ。気がつけば、曳馬と朱江が付き合っていた。隠されもしなかったし、告げられもしなかった。三人一緒は変わらず続いた。朱江からも、曳馬からも宇希は離れることはできなかった。むしろ離れないためにはどうするべきか、というのが彼女の人生を賭けた命題になった。
  朱江の出身は東京、曳馬は北陸。大学を出たら郷里に帰るかもしれない、違う土地で就職するかもしれない。このままがずっと続くわけではない事はあらかじめわかっていたのだ。だからこそ、彼等に必要とされることが宇希の唯一のよすがだった。曳馬が劇団を立ち上げるというなら、そこで必要とされる人材になるのだ。そうすれば、曳馬と、朱江と一緒にいられる。
「ホンを書けと言われたから書いてる。でも、それってあたしじゃなくてもいいかもしれん、って。」
 夏香は隣で沈黙したままだ。愚痴が過ぎたかもしれないと宇希は思った。
「それは、めちゃくちゃ必要とされてますよ。」
普段の高い声を重々しく下げて、夏香が言った。
「それは、辻さんじゃなきゃダメってことです。」
「いや、全くないから。多少、趣味の接点があるくらいだから、散々こき下ろされてるから」
「自分が書ける人は、自分で書くんです。自分が書いた台本やりたいから劇団作る人っていうのは結構います、まあ、私の知る限りですが。でも、台本を書かせたくて劇団作る人なんてそういません。」
名古屋のアマチュア劇団を制作やお手伝いとして、いくつも掛け持ちした経験のある夏香の言うことを疑う理由はなかった。
「曳馬さんが劇団を立ち上げるとき、私に言ったんです。自分は書かない、書いて欲しい人がいるって。辻ちゃんは一人で書き溜めてるけど、学校の映画研究会は廃部寸前、今、演出助手やってるとこでは上演させてもらえないから、って。」
「嘘やろ、あの人がそんなこと言うわけないし。そもそも、21衛門にいったのは台本を書くためじゃなくて、スタッフの勉強やし、」
「順番はこの際、いいんです。曳馬さんは辻さんに書いて欲しくて、書けっていってるんですよ。」
  今度は宇希が黙る番だった。地下鉄は闇の風になってトンネルを駆け抜ける。宇希は自分の心臓が鼓動を急ぎ過ぎて肥大して爆発して、ビックバンを起こして、車内を占めるサラリーマン風の男女をブラックホールに飲み込んでしまうのではないかと思った。暫し、自分のいる場所も空間も時間も失念した。
「降りなくていいんですか」
水の中で誰かの声がした。
「辻さん、聞こえてます?着きましたよ」
「え、あ?」
いつのまにか電車は止まっており、慌てて宇希は駅名を見ると、発車のベルに弾かれるように駆け下りた。まだ心臓の存在感が全てにまさっている。
  動き出す電車の窓から、夏香が手を振っている。思わず、
「ありがとう!」
と彼女に向けて叫んでしまった。その声を地下鉄の轟音はさらって次の駅へと走っていく。

続く


読んでくれてありがとうございます。