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頑張った…自分をほめてあげてください!?ほめられない…ほめるのは…なんだかとっても耐えがたいのよ…!

 たまに聞く言葉、「頑張った自分をほめてあげてください」という言葉、この行動というか、感覚が、どうにも苦手で仕方がない。

 「自己肯定感」という言葉が広まって、いや…それにしたって…自分は自分を肯定するという感覚が無さすぎだったのデハ!?これでは、破滅に向かい過ぎデハ!?と思い、Netflixで瞑想など始めてみると、自分で自分を肯定することがいかに大事か、という内容のオンパレードである。自分を認めてあげられるのは自分だけ。本当に、もうおっしゃる通り。その通りなのである。

 毎朝、瞑想の番組を聞いている。NetflixとSpotifyで数年にわたり瞑想をやっているので、多分300✖️3イコール900回くらいは聞いたはず。

 しかしこの自分を、褒める、認めるという感覚はどうにもこうにもサブイボが出る。

 どうしてなのかを考えてみた。

 自分たちのことを美男、美女だと確信してはばからなかった私の母と兄は、物心ついた頃から自分たちのことを、自分たちでよくうわごとのように、大絶賛していた。

 それはそれは、彼らの世界を見る目、それは世界にも名だたる、どこかの、とてもすごい山のような(※すごい山全般に、興味がないので、適当である)高い、高い、それにしたって高すぎる目線であった。

 彼らのその価値観の中において私の存在はかなり低い立場に置かれており、そのような中でやみくもに自分たちを絶賛する彼らの姿は、とても暴力的で滑稽なものに見えた。

 なぜ、彼らが自分たちをそんなにすごい存在だと思っていたのかといえば、それは彼らが、自分たちでそう思っていたからに他ならないのであった。恐らくはまっとうな自己肯定感というのとも少し違っていて、何か「下の存在」をけなすことによって、自分たちの身を高めているような言動が多かったのだった。

 私はこの、ものすごく狭い世界の中で、彼らがなぜか、自分たちがとてつもなく凄いと思っているような言動や有様が、どうにも耐え難かったが、そうは言っても「(日本の残念な)家」というのは大抵、そんなものである。その「すごい」の指標は、狭い世界では永遠(とわ)に、続くのだった。天変地異が起ころうとも、「狭い世界の中でアイツはすげえ!!!」みたいなものが、むしろものすごく重要なものとみなされてしまう。しかもその凄さは「(地方都市の)長男である」というような、絶対的に変わりえないものに軸が置かれているので、どうしようもないのである。

自分で自分をほめている彼らの様子は、昔から、とても耐えがたいものがあった。

ああはなりたくない、そうずっと思って生きてしまった。そのせいで、自分をほめている人が、耐えられない。そのため自分で自分をほめることが、なかなかできないのであった。

 

 

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