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編集者が企画を考えるときに考えること(スピリチュアル編集術 #1)

最初に本を作るとき「企画を考える」作業から入るのが通常だけど、企画を考えるというのがしっくりこない。例えば、独立系出版社{NC}の1発目の書籍「ぬりえほん ねこ」。塗り絵と絵本が合体した新しいコンセプトの本だ。これは企画を考えるよりも娘が一心不乱に塗っているのを見て思いついた。企画を出そうとして出したわけではなく、“自然にできあがっていた”。イメージした瞬間にゴールが見えて、ゴールの先が見えているものだった。ゴールの先、というのが意外と重要。ゴールだけならいっぱい出会うから。

本のアイディアが浮かぶときはいつも、企画を考えているときではない。そもそも企画のための企画は考えない。世の中に必要なものは自然に生まれてくるものだと思っている。それを編集者はつかまえて高めていくだけ。目の前のターンテーブルに流れていくたくさんの荷物があって、その中で光っているものを取りに行くイメージ。あ、それ俺の荷物だと。

それでも勘違いしてしまうときもある。自分の荷物じゃないのに。そんなときはプロセスがある。ぬりえほんの場合は、
子どもが塗っていた→俺も一緒に塗ってみた→時間の共有→絵を壁に貼ってみた→紙と記憶が残るものが家に生まれた
→は広がりであってゴールではない。ゴールは少し手前にあって(この場合は時間の共有)、広がりは自由にしておく。広がりは個人の自由に任せる。自由にしておくとは「スペースを空けておく」こと。そのスペースを空けておくと、読者や受取手が自由に「やり方」を考えられる。勘違いかどうかはそのスペースがあるかどうかで考える。スペース=広がりがいくつもいくつも出てくるかどうか。

企画会議はしない。企画開陳はするけど。箇条書きやモックアップを作って人に話しまくる。見せまくる。企画をさらす。川に流して引きでも寄りでも見物してもらう。さらされてないものは弱い。タイトルも同じ。もじもじして言わない人いるけど意味が無い。言葉で言いくるめようとしてもダメ。ただ流す、さらす。さらすのが恥ずかしいならそんなもんただの思いつきにすぎない。さらす量は多ければ多いほどいい。繰り返すが、世の中に出るべき企画はもともと決まっている。ちっぽけな編集者が頭で考えてひねり出すものではない。光るものが見えないなら深く内面を覗いてみたらいい。間違っても他人の光るものを見つめてはいけない。

完全にインディペンデントとして存在し、オルタナティブな出版の形を模索し続けます。