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雑記:花束みたいなデッドエンドが追いかけてくる

『花束みたいな恋をした』という映画がある。

割と有名な作品なのであえて説明する必要もないけれど、これは恋愛モノの邦画だ。俺は実写の人間がわちゃわちゃする恋愛にあまり興味がない上に、サブカルカップルの出会いと別れというあらすじにしゃらくささを感じてたので、この映画を観ることは生涯ありえないだろうとタカをくくっていた。

しかし、『ベイビーわるきゅーれ2』でこの映画のネタがやたらめったら擦られていたことで話は変わってきた。ベビわる2の流れで俺は『花束みたいな恋をした2』や『花束みたいな恋をした MEGA MAX』などの派生作品を勝手に妄想して茶化していたのだが、オリジナルを知らずにそんなことをするのはリスペクトに欠ける行為だと思い、きちんと観ることにしたのだ。

ちなみに、ベビわる2は最高の映画だ。

『花束』はだいたい以下のような映画だ。

主人公の麦(菅田将暉)と絹(有村架純)のカップルはセックス三昧でボヘミアンな大学生活を堪能したあとにフリーターとなり、ゆるい幸せがだらっと続く生活を送ろうとする。しかし結局、社会の「ちゃんとしろ」という圧力に抗えず、彼らもちゃんとしていくことを余儀なくされる。先に絹がフルタイム勤務の仕事を手に入れ、それにつられて急に甲斐性を意識しだした麦も定職に就く。

そうして麦が社会人生活に慣れたころに絹は社会人生活に倦み疲れ、転職を決める。絹と過ごす時間の代わりに"社会性"を手に入れた麦は彼女のそうした振る舞いに身勝手さを感じ、一方の絹はといえば、あくせくと働き急激につまらなくなる麦に魅力を感じなくなっていく。もはや大学生の頃のような関係を取り戻せないことに気付いたふたりは、せめて最後は美しいままでとばかりに、自発的に関係を終えるのだった……。

結論からいうと、この映画はやはり俺の好みではなかった。全体を通してしゃらくさい。けれど、売れる映画だということはとてもよく分かった。より具体的にいうなら──いま俺がこうしているように──他人に喋って聞かせたくなるような映画だ。サブカルかぶれの20代~30代の最大公約数的な人間像をいやらしいほど上手に抽出できており、主人公たちはTwitterのオタクのリプライみたいな文章で会話している。これは背筋が寒くなるほどスベってはいるけれど、同時によくできたスベリ笑いでもある。しかもこの映画を観る手合いはおそらく大体がサブカルかぶれの20代~30代なので、サブカルかぶれサイクルがさらに加速し拡散するという寸法だ。まったく、鼻につくくらいよくできている。

この映画のどこに共感するかといえば、その救いのなさだ。

パーカーを着て自由を謳歌していた大学生が『クソくだらないが食っていける仕事』と『面白いがまるで稼げない仕事』の二択を突きつけられる。選択の余地はないも同然だ。飢え死にしたくなければ──ふだん飲んでいるコーヒーのグレードを下げたくなければ──ネクタイを締めた囚人になることを選ばざるを得ない。

囚人は感性と自由を奪われる。奪われている苦痛と屈従を自覚できればまだ幸せなほうで、多くは愚鈍と慣れでこれに耐え、やがて忘れていく。麦や絹、そして我々が置かれている状況は、実質的に自分の命を質に取られているようなものだ。そして、質に入れられた命を分割払いで取り戻すことを憲法で義務付けられている。やっと自分の手元に戻ってきたとき、その命はどれだけ目減りしていることだろう。

……とまあ感傷的に書き連ねたこういう救いのなさを、我々は『花束』から大なり小なり呼び起こされて共感するというわけだ。

けれど、その先は?

本当に救いがないのは、麦や絹のようにならない・・・・方法がほとんど思い浮かばないことだ。この映画に現実的な解決方法は存在しないように見える。二人がファミレスで過去の自分たちを幻視したように、モラトリアムで生まれた恋愛はモラトリアムと共に終わる(あるいは不可逆に変質する)ということを真理として受け容れる以外のすべはないように思える。

だから我々にできることといえば、ただ主人公たちの辛い思いを分かち合ってメソメソするか、「しょうもないモラトリアムを送って自分は特別だと勘違いしたバカには当然の末路だね」なんてシニカルな目線を送って斜に構えるくらいしかない。彼らが夢と愛を捨てずにいられる未来は、スクリーンの中と外を問わず、ハナから想像の範疇外に追いやられてしまっている。俺にとって本当に苦痛なのはその想像力のなさと、そうさせる世界の在り方だ。

この世界は、ある一線を超えた途端に想像力を失ってしまう。いずれは囚人となる未来以外を想像させなくするのだ。夢を叶えられるのはごく一部で、ほかは無能と怠惰ゆえに己の意に沿わない人生を歩んで当たり前。アーティストとして食っていけるなら尊敬するが、そうでないなら穀潰し。そういう無表情な価値観で占められた袋小路デッドエンドから逃れられないことこそ、真に恐ろしく、苦しく、やるせない。

こうした目線に立ったとき、『花束』はモラトリアムを題材にしたというより、むしろマーク・フィッシャーをロマンス映画に仕立て直したような作品のように思えてくる。もちろん、作り手にその意図があったかは甚だ疑問だけれど。

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